第七章 王宮の凋落
王宮の執務室に、報告書が山積みになっていた。
侍従長のイヴァンが、エドヴァルド国王の前に書類を一枚一枚並べながら、努めて平静な声で説明していた。
「まず北方の税収報告ですが、集計に誤りが見つかりまして。精査に通常の三倍の時間がかかっております」
「……三倍」
「ヴォルコフ卿が担当されていた部署で、同じ精度で作業できる者が、現状おりません」
エドヴァルドは黙って次の書類を見た。
「続いて西方との交易協定の更新ですが、期日を過ぎております。担当者が条件の詰め方を把握しておらず、先方から問い合わせが来ている状態です」
「……把握していない?」
「ヴォルコフ卿が毎年一人で処理されていた案件です。引き継ぎ書類はございましたが、読み解ける者が」
「いない、と」
「はい」
エドヴァルドが額に手を当てた。
「他には」
「財政の月次報告ですが、数字が合っておりません。どこで誤差が出ているか、現在調査中ですが、原因の特定に時間がかかっております。それから――」
「もういい」
エドヴァルドが手を上げた。
執務室に、重い沈黙が落ちた。
エドヴァルドは机の上の書類の山を見た。一つ一つは、それほど大きな案件ではない。しかし全部が同時に滞っている。
ルカシュ・ヴォルコフが一人でこなしていた仕事の全体像が、今になって初めて見えた気がした。
(一人で、これを全部)
しかも誰にも気づかれないように、当たり前のように。
「イヴァン」
「はい」
「ヴォルコフ卿が王宮にいた頃、彼の仕事ぶりを正当に評価していた者は、どれだけいたか」
イヴァンが、少し間を置いた。
「……正直に申し上げれば、ほとんどおりませんでした。呪われた色を持つ方ということで、近づく者自体が少なく」
「そうか」
「ただ、いなくなってから、気づいた者は多うございます」
「遅い」
「……はい」
エドヴァルドは立ち上がった。窓の外を見た。
「ミラーナを呼べ」
「……殿下は只今、自室に籠もられておりまして」
「構わない。呼べ」
「かしこまりました」
しばらくして、ミラーナが執務室に入ってきた。
父の表情を見て、何かを察したのか、珍しく黙ったままソファに腰を下ろした。
エドヴァルドは、机の上の書類の山を指差した。
「これが何かわかるか」
「……書類でしょう」
「全部、ヴォルコフ卿が一人で処理していた仕事だ。今、誰も処理できずに滞っている」
ミラーナが黙った。
「税収の集計が止まっている。交易協定の更新が遅れている。財政の数字が合わない。これが、お前が婚約破棄した結果だ」
「……それは」
「ミラーナ」
エドヴァルドの声が、静かになった。
静かなほど、重かった。
「お前に、王女として聞く。ヴェルナ王国の王女として。自分のしたことの重大さが、今、わかるか」
ミラーナが、初めて目を伏せた。
返事がなかった。
返事がないことが、答えだった。
エドヴァルドは長く息をついた。
「ラズリエフ公爵家への非礼、王として謝罪する。お前も、それを理解しなさい」
「……お父様」
「廃嫡については、追って正式に発表する」
ミラーナの顔が、青くなった。
「……廃嫡?」
「王弟一家から養子を迎える話を、すでに進めている」
「待って、それは――」
「ミラーナ」
エドヴァルドが、娘を真っ直ぐに見た。
「お前を愛していないわけではない。だからこそ、これ以上お前の好き勝手に王国を傾けるわけにはいかない」
ミラーナが、口を開きかけて、閉じた。
目が、じわりと赤くなった。
「……私は、どうなるの」
「王女としての身分は保つ。ただし、政務への関与は認めない。しばらく、王都を離れなさい」
沈黙が落ちた。
ミラーナが立ち上がった。
何も言わずに、扉へ向かった。
扉の前で、一度だけ止まった。
「……お父様」
「なんだ」
「ルカシュは、今、幸せにしているの?」
エドヴァルドは、少し驚いた。
「……さあな。だが、そうであることを願っている」
ミラーナが、小さく頷いた。
それだけで、扉を閉めた。
王女の馬車の中は、静かだった。
ドラゴミルは向かいの席で、静かに目を閉じていた。
(負けた)
今日の結果を、冷静に整理していた。
使者を送って失敗した。取引先への圧力は効かなかった。直接乗り込んで、また失敗した。
(イリナ・ラズリエフ)
応接室でのあの女の顔が、頭から離れなかった。
震えていた。ドラゴミルの目には、わかった。膝の上の手が、かすかに震えていた。
それでも、笑っていた。
声を荒げず、怒鳴らず、ただ静かに、一歩も引かなかった。
(婚約者を、一方的な感情で傷つけることを、私は許しません)
あの一言が、まだ耳に残っていた。
自分がイリナに婚約破棄を告げた日のことを、ドラゴミルは思い出した。
「心に決めた方ができた」
それだけ言った。理由も、謝罪も、ろくにしなかった。イリナは静かに頷いて、それ以上何も言わなかった。泣きもしなかった。怒鳴りもしなかった。
その時は、あっさりしたものだと思っていた。
今になって、違う見方ができた。
あの女は、怒りを飲み込んでいたのだ。
(割に合わない仕事だ)
目を閉じた。
王都が近づいていた。
誤字報告ありがとうございます!
訂正いたしました。
今後ともよろしくお願いします。




