第六章 王女の暴走
ラズリア領に王女の馬車が現れたのは、よく晴れた午前のことだった。
「殿下、本当によろしいのですか」
ドラゴミルが、努めて平静な声で言っていた。内心では頭を抱えていた。
止めた。何度も止めた。
「直接乗り込むのは得策ではありません」と言った。「ラズリエフ家を刺激するだけです」とも言った。「もう少し時間をかけて」とも言った。
ミラーナは聞かなかった。
(この女は本当に)
ドラゴミルは確信していたが、もはや止める言葉が出なかった。
王女の馬車が、ラズリエフ邸の門をくぐった。
応接室のソファに腰を下ろしたミラーナは、部屋を見渡した。
広く、品の良い部屋だった。海が見える大きな窓。センスの良い調度品。王宮とは違う、しかし確かな格を感じさせる空間だった。
それが、なぜか余計に腹立たしかった。
扉が開いた。
入ってきたのは、イリナ・ラズリエフだった。一人だった。
「ようこそいらっしゃいました、王女殿下」
にこやかに言った。
「ヴォルコフ卿は?」
開口一番、それを聞いた。
「本日はあいにく、外出しております」
嘘だとわかっていた。ミラーナも、イリナも、両方わかっていた。
「……そう」
「殿下、本日はどのようなご用向きでしょうか」
「わかっているでしょう」
「存じません」
イリナが静かに、向かいのソファに腰を下ろした。
背筋が伸びていた。微笑みが崩れなかった。
「ヴォルコフ卿を返しなさい。あの方は王宮に必要な人間よ」
「おかしなことをおっしゃいますね、殿下」
イリナが首を傾げた。
「殿下は先日、ヴォルコフ卿が不正を働いたと宣言されました。不正を働いた人間が、なぜ王宮に必要なのですか?」
「それは……状況が変わったのよ」
「状況が変わったのであれば、まずヴォルコフ卿の冤罪を公式に晴らすことが先かと存じます。大勢の前で宣言された婚約破棄ですので、同様に公式の場での名誉回復が必要ですね」
ミラーナの目が細くなった。
「……生意気ね」
「事実を申し上げているだけです」
「貴女、私が王女だとわかっているの?」
「もちろんでございます」
イリナは微笑んだまま、続けた。
「ですから、申し上げます。ヴォルコフ卿は現在、ラズリエフ家の婚約者です。その方を婚約者の同意なく連れ去ることは、いかなる理由があろうとも認められません。これはラズリエフ家の正式な立場です」
「正式な立場? 公爵家風情が、王女である私に向かって?」
「風情、とおっしゃいますか」
イリナの笑みが、少しだけ変わった。
柔らかいままだった。でも、その奥に何かが灯った。
「ラズリエフ家はヴェルナ王国の外交を百年以上支えてまいりました。その家が正式に異議を唱えた場合、どうなるかは……殿下もご存知のはずです」
沈黙が落ちた。
ドラゴミルが、ソファの端で静かに目を閉じた。
(やはりこうなった)
「……脅しているの?」
「滅相もございません」
イリナが立ち上がった。
「ただ、事実をお伝えしているだけです。ヴォルコフ卿はここにいます。ここにいることを、ご本人が望んでいます。それだけのことです」
ミラーナが立ち上がった。
「ルカシュ本人に聞かせなさい! 直接話すわ!」
「それはできません」
「なぜ!?」
「婚約者を、一方的な感情で傷つけることを、私は許しません」
静かな一言だった。
怒鳴りもしなかった。声を荒げもしなかった。
ただ、一切の迷いがなかった。
ミラーナが、初めてたじろいだ。
「……あなた、ルカシュの何なの」
「婚約者です」
即答だった。
「それ以上でも、それ以下でもございません。ですが、それで十分です」
ドラゴミルが静かに立ち上がった。
「……殿下、参りましょう」
「ドラゴミル」
「今日のところは」
その声は、いつになく硬かった。
ミラーナは、イリナを一度だけ見た。
イリナは、最後まで微笑んでいた。
馬車に戻る道すがら、ミラーナは何も言わなかった。
ドラゴミルも、何も言わなかった。
馬車が動き出してから、ミラーナが小さく言った。
「……負けたの、私」
ドラゴミルは答えなかった。
答えない事が、答えだった。
応接室に一人残ったイリナは、長く息をついた。
膝の上で、手が少し震えていた。
(怖かった。普通に怖かった)
でも。
立てた。笑っていられた。
「……イリナ嬢」
振り返ると、扉の影にルカシュが立っていた。
「外出中ではなかったんですか」
「……心配で」
「図書室にいてくださいと言いましたよ」
「すみません」
ルカシュが、静かに近づいてきた。
震えている手を、そっと両手で包んだ。
「……ありがとうございます」
イリナは、しばらく黙っていた。
「どういたしまして」
やっと、そう言えた。




