第五章 使者と対決
ラズリエフ邸に王宮からの使者が来たのは、穏やかな午後のことだった。
セルゲイが応接室に顔を出した時、イリナは書類仕事の最中だった。
「お嬢様。王宮より使者がございます」
イリナの手が止まった。
「……王宮から」
「はい。ヴォルコフ卿へのご用向きとのことで」
イリナは書類を置いた。来た、と思った。早いか遅いかで言えば、予想より少し早かった。
「父上は?」
「すでにご存知で、応接室にてお待ちです。ヴォルコフ卿にもお声がけするようにとのことで」
イリナは立ち上がった。
応接室には、王宮の紋章を付けた初老の使者が座っていた。いかにも官僚然とした、表情の読めない男だった。
アレクサンドルが上座に座り、その隣にイリナ、そしてルカシュが並んだ。
使者が一礼した。
「このたびは突然お邪魔いたしまして、失礼いたします。王女殿下よりのご伝言をお届けに参りました」
「拝聴いたしましょう」
アレクサンドルが、穏やかに、しかし一切の隙なく言った。
使者が書状を取り出した。
「ヴォルコフ・ルカシュ卿におかれましては、王宮における重要な職務が山積しており、一刻も早いご帰還が求められております。つきましては、ラズリエフ公爵家のご厚意に深く感謝申し上げつつ、卿のご返還をお願いしたく――」
「少々よろしいですか」
遮ったのは、ルカシュだった。
使者が目を瞬かせた。
ルカシュは静かに、しかし一言一言を丁寧に区切りながら言った。
「王女殿下が私に婚約破棄を宣言されたのは、つい先日のことです。その際、職務における不正行為を理由として挙げられました」
「……はあ」
「つまり王女殿下は、不正を働いた人間を王宮の重要な職務に就かせたい、とおっしゃっているわけですね」
沈黙が落ちた。
使者の表情が、初めて揺れた。
「そ、それは……言葉の綾といいますか」
「王命の書状において、言葉の綾は通りません」
アレクサンドルが静かに引き取った。
「それに、ヴォルコフ卿は現在ラズリエフ家の婚約者です。婚約中の令息を、婚約者の同意なく召喚する権限が、王女殿下にはございますか?」
使者が口を開きかけた。
「もし王命として強行なさるのであれば」
イリナが、静かに続けた。
「ラズリエフ家は、外交上の正式な異議申し立てを行います。うちは外交が専門ですので、その手続きには慣れておりますよ」
にっこりと微笑んだ。
使者の顔が、みるみる青くなった。
しばらくの沈黙の後、使者は深々と頭を下げた。
「……持ち帰り、再度ご検討いただくよう申し伝えます」
「ご苦労様でした」
アレクサンドルが鷹揚に言った。
使者が退室した後、応接室に静寂が落ちた。
やがてルカシュが、ゆっくりと息を吐いた。
「……すみません。先に話してしまって」
「いいえ」
イリナは首を振った。
「完璧でした」
「……そうですか」
「言葉の綾は通りません、のくだり。私が言おうと思っていたのに、先を越されました」
ルカシュが少し目を瞬かせた。それから、かすかに笑った。
アレクサンドルがお茶を一口飲んだ。
「婿殿、外交の才もおありのようで。頼もしい限りです」
「……恐れ入ります」
「次は手を変えて来るでしょう」
アレクサンドルの声が、少し低くなった。
「覚悟しておきましょう」
窓の外では、ラズリアの海が変わらず光っていた。




