第四章 ラズリア領にて
ラズリエフ家の領地運営会議は、週に一度、執務室で行われた。
イリナが跡取りとして同席するのは常のことだったが、今週からルカシュも加わることになった。アレクサンドルの「せっかくだから」という一言で、あっさり決まった。
長机の上に、書類が広げられていた。今期の交易収支、港湾の整備費用、観光客向けの宿泊施設への投資計画。ラズリア領の運営は多岐にわたる。
「今期の交易収支は概ね順調ですが、北方航路の関税が来期から引き上げられる見込みで、その分の収益減が見込まれます」
筆頭家令が淡々と報告した。
アレクサンドルが顎に手を当てた。
「北方航路の代替ルートは」
「南回りになりますが、日数がかかる分、輸送コストが上がります。現状では得策とは言えないかと」
「ふむ」
イリナも書類を眺めながら考えた。北方航路の関税引き上げは、ラズリア領にとって痛手だった。代替案を早急に考えなければならない。
沈黙が落ちた。
その時、ルカシュが静かに口を開いた。
「……少し、よろしいですか」
全員の視線が向いた。
ルカシュは手元の書類を見ながら、言葉を選ぶように続けた。
「北方航路の関税引き上げは、おそらく王都側の財政補填が目的かと思います。であれば、引き上げ幅は一律ではなく、品目によって差が出る可能性があります」
「品目によって?」
アレクサンドルが身を乗り出した。
「王都が必要とする物資——穀物や建材——については関税を抑えて流通を確保し、嗜好品や工芸品に重くかける、というのが王家の過去の傾向です。ラズリア領の主要輸出品は何でしょうか」
筆頭家令が書類を繰った。
「香辛料、染料、それから海産物の加工品が主力です」
「香辛料と染料は嗜好品寄りの扱いになりますが、海産物の加工品は食料品として分類できます。交渉次第では、食料品枠での関税適用が認められる余地があります」
沈黙。
アレクサンドルが筆頭家令を見た。筆頭家令がアレクサンドルを見た。
「……それは、盲点でした」
筆頭家令が、少し驚いた顔で言った。
「王都との交渉窓口はございますか? 品目分類の申請は、時期が早いほど有利です」
「ございます。来月、王家への上申書を送る予定ですので、そこに盛り込めるかと」
「であれば、申請書類の文面はこう書くと通りやすいかと思います」
ルカシュが書類の余白に、さらさらと書き込んだ。
筆頭家令が覗き込んで、目を丸くした。
「……これは、王都の文書様式に沿った書き方ですね」
「王宮で書類仕事をしておりましたので」
さらりと言った。
イリナはその横顔を見ていた。
王宮では「目立ってはいけない」と抑えていたはずの人が、今は自然に、当たり前のように意見を出している。誰かに遠慮する様子もなく、かといって出しゃばる様子もなく。
ただ、必要なことを、必要なだけ言っていた。
(この人、本当はこういう人なのね)
胸の奥が、じわりと温かくなった。
会議が終わった後、アレクサンドルがルカシュの隣に並んだ。
「ヴォルコフ卿」
「はい」
「……婿殿、と呼んでもよろしいですか」
ルカシュが、少し目を瞬かせた。
「……はい。喜んで」
アレクサンドルが、よし、と短く言った。それだけだったが、その一言に色々なものが込められているような気がした。
廊下に出たイリナの隣で、ルカシュが静かに言った。
「……慣れない感じがします」
「何がですか?」
「意見を言って、怒られないのが」
イリナは少し黙った。
(王宮では、意見を言うたびに何かあったのかしら)
「ここでは怒りませんよ。むしろ、どんどん言ってください」
「……そうします」
短い返事だったが、どこか、ほっとしたような声だった。
会議が終わった後、イリナは何となく浜辺へ向かった。
考え事がある時、海を見る癖が昔からあった。
砂浜に出ると、夕暮れの風が髪を揺らした。水平線が橙色に染まっていた。波の音だけが、静かに繰り返していた。
「……ここにいらしたんですね」
振り返ると、ルカシュが少し離れたところに立っていた。深藍の上着が、夕暮れの光の中で映えていた。
(仕立て屋に感謝しなければ)
などと思いながら、イリナは前を向いた。
「散歩ですか?」
「貴女を見かけたので、ついてきてしまいました。……邪魔でしたか」
「いいえ、どうぞ」
ルカシュが隣に並んだ。
しばらく、二人とも黙っていた。波の音と、遠くで鳴く鳥の声だけがあった。
「……今日の会議、出しゃばりすぎましたか」
ルカシュが静かに言った。
「え?」
「意見を言いすぎたかと思って。ここはラズリエフ家の領地なので、私が口を挟む話でも」
「とんでもない」
イリナは即答した。
「あの品目分類の件、目から鱗でした。筆頭家令のセドフも、後で興奮気味に話しかけてきましたよ」
「……そうですか」
「遠慮しないでください。というより、してほしくないです」
ルカシュが少し黙った。
波が一つ、砂浜に打ち寄せた。
「……イリナ嬢」
「はい」
「あの夜のことを、まだきちんとお礼を言っていなかったと思って」
イリナは横を向いた。ルカシュが、水平線を見つめたまま続けた。
「舞踏会で、声をかけてくださった時。あの場で誰かが自分のために動いてくれるとは、思っていなかったので」
「……それは」
「最初は、夢かと思いました」
静かな一言だった。
夢、という言葉の重さを、イリナはしばらく噛みしめた。
あの場で、誰も動かなかった。百人以上の貴族が固唾を呑んで見ていた。それがルカシュには、当たり前の景色だったのだろう。誰も来ない、誰も声を上げない、それが当たり前の。
(そんなの、当たり前じゃないのに)
「夢じゃないですよ」
気づいたら、口から出ていた。
「貴方は今、ここにいます。ラズリア領に。うちの父に婿殿と呼ばれて、筆頭家令を唸らせて、私の隣に立っている」
ルカシュがこちらを見た。
夕暮れの光の中で、赤い瞳が揺れていた。
「……そうですね」
「お礼なら、受け取ります。でも私こそ、助かっています。婿養子探しが一件落着しましたし」
最後だけ、わざと軽く言った。
ルカシュが、小さく笑った。
「……相変わらず正直な方だ」
「褒めていますか?」
「褒めています」
波がまた一つ、打ち寄せた。
橙色の空が、少しずつ紫に変わっていく。
イリナは前を向いたまま、頬が温かくなるのを、どうすることもできなかった。
(夕暮れのせいよ。絶対にそう)
そういうことにした。




