第二章 婿殿、ご用意できました
仕立て屋が広げた布地の見本は、テーブルの上に美しく並んでいた。
絹、ベルベット、上質なウール。色は深藍、森深い緑、落ち着いたえんじ、炭に近い灰。いずれも上質で、いずれもルカシュの黒髪と赤い瞳に映えそうだった。
(さて、どれが一番似合うかしら)
イリナは顎に手を当てた。
仕立て屋の前に立つルカシュは、どこか居心地が悪そうにしていた。採寸されながら、時折こちらを窺っている。
(華美な刺繍や装飾は、この方には似合わないわ。シンプルな仕立てで、ご本人の美しさを引き立てる方向で行くべきよね。でも深藍は知的な印象で素敵だし、えんじは赤い瞳と響き合って艶っぽいし、緑は黒髪との対比が映えるし……)
脳裏に、ルカシュが各色の衣装を纏う姿が次々と浮かんだ。
(全部作ってもらいたい。でもさすがにそれは……いや、でも婿殿のご用意という大義名分が……)
「イリナ嬢」
「っ!」
気づけばルカシュが、こちらを覗き込んでいた。仕立て屋が採寸の手を止めて、二人を交互に見ている。
赤い瞳が、穏やかに、しかしどこか楽しそうにイリナを見ていた。
「大丈夫ですか? 先ほどからずっと、難しい顔をされていたので」
「! だ、大丈夫ですわ! 少し考え事をしていただけです!」
(名前で呼ばれた。しかも自然に。いつの間に。というかそれより今の私、声が裏返っていなかったかしら)
「そうですか」
ルカシュは特に追及しなかった。ただ、口元がかすかに緩んでいた。
(絶対に何か思われた。何を考えていたか、悟られていたら死ぬ)
「あの、ヴォルコフ卿はお好みの色はございますか?」
努めて平静に聞いた。
「好みを、聞かれたことがあまりなかったので」
ルカシュが少し考えるように布地に目を落とした。
「……これ、でしょうか」
指差したのは、深藍だった。
(深藍! やっぱり! 知的で落ち着いた印象で、黒髪に映えて、最高だと思っていたのよ!)
「よろしいお選びですわ」
声だけは落ち着いて言えた、とイリナは思った。
顔が笑っていないかだけが、少し心配だったが。
仕立て屋がにこやかにメモを取りながら、何も言わなかった。
結局、その日は普段着から正装まで一通り注文することになった。
ラズリエフ家の夕食は、賑やかだった。
王宮の晩餐とは、全く種類の違う賑やかさだった。あちらは格式と緊張と腹の探り合いで満ちていた。こちらは、ただ食卓を囲む人間たちが、普通に話していた。
「ルカシュ卿、口に合いますか?」
ナターリアが聞いた。
「……はい。とても」
本当のことだった。交易で栄えるラズリア領の食卓は、王都では見かけない食材や香辛料が使われていて、どれも初めての味だった。
「それは良かった。料理長が張り切っておりましたのよ、婿殿のお口に合うものをと」
「料理長まで」
「ラズリエフ家はそういう家なんです」
イリナが少し誇らしげに言った。
アレクサンドルがルカシュにグラスを傾けた。
「堅苦しい話は追々するとして。今夜はゆっくり食べてください。王宮での食事は、味がしましたか?」
「……あまり、覚えていません」
正直に答えてから、しまったと思った。しかしアレクサンドルは眉一つ動かさず、ただ「そうですか」と言った。
その「そうですか」の中に、怒りがあることをルカシュは感じた。自分に向けられた怒りではない。そういう状況に置かれていたことへの怒りだった。
不思議な感覚だった。
食事が進み、デザートが運ばれてきた。
ラズリア産の果物を使ったタルトと、蜂蜜がけのムースだった。
その瞬間、ルカシュの動きが一拍だけ止まった。
ほんの一瞬のことだった。しかしイリナは見ていた。
(今、顔が変わった)
目が、かすかに輝いた。口元が、ほんの少し緩んだ。それだけだったが、それだけで十分だった。
(甘いもの、好きなのね……!)
「ヴォルコフ卿」
ナターリアが穏やかに言った。
「甘いものはお好きですか?」
「……人並みには」
「そうですか」
ナターリアは微笑んだまま、それ以上聞かなかった。ただ、ルカシュの皿にタルトをもう一切れ追加した。
ルカシュが小さく目を瞬かせた。
「……ありがとうございます」
「どうぞ召し上がれ」
イリナはお茶を一口飲みながら、内心でそっとガッツポーズをした。
(人並みには、って言いながら目が輝いてたじゃないの。可愛い人ね……!)
アレクサンドルがイリナをちらりと見た。娘の顔が緩んでいるのを見て、何も言わずにワインを飲んだ。
(育て方、間違っていなかったかもしれん)
食後、イリナはルカシュに邸の中を案内することにした。
「広い邸ですね」
「ラズリエフ家は外交の賓客をお迎えすることも多いので、客室が多いんです。あちらが応接間、こちらが――」
角を曲がったところで、ルカシュの足が止まった。
壁一面の、本棚だった。
「……図書室ですか」
「ええ。お好きですか?」
返事がなかった。
ルカシュはすでに本棚の前に立って、背表紙を一冊一冊、目で追っていた。王宮での静かで抑制された様子とは少し違う、素の集中だった。
(あ、この人、本が好きなのね)
イリナは少し微笑んで、隣に並んだ。
「よろしければ、自由にお使いください。ここの本はほとんど読みましたので、何かお探しであれば」
「これは」
ルカシュが一冊を引き抜いた。
イリナは背表紙を見た瞬間、固まった。
『夜明けの誓約 〜騎士と伯爵令嬢の恋〜』
イリナが三回読み返した、お気に入りのロマンス小説だった。
「貴女が?」
「……あー……その……父が、外交の場でいただいた、諸外国の文化に触れるための……」
「そうですか」
ルカシュは表紙をしばらく眺めてから、静かに言った。
「私も、読んだことがあります」
「え?」
「王宮の書庫に、似たような本が何冊かありまして。政務の合間に、こっそり」
(こっそり!?)
「……面白かったですか?」
「ええ。騎士が令嬢を馬に乗せて逃げる場面が、特に」
イリナは本棚を向いたまま、顔が赤くなるのを止められなかった。
(趣味が合う。しかもよりによって一番好きな場面が一緒。どういうこと)
「……奇遇ですね」
「そうですね」
ルカシュが本を棚に戻した。その横顔が、かすかに笑っていた。
(笑ってる。絶対に何か気づいてる)
「……自由にお使いくださいね、図書室」
「ありがとうございます。また来てもいいですか」
「どうぞ」
イリナは努めて平静に答えた。
廊下に出てから、一人で小さく悶えた。




