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【完結】婚約破棄されたので、全力でお迎えします!  作者: ましろゆきな


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2/15

第一章・後編 婚約者、一名確保しました

 先に歩き出したイリナの後ろから、ルカシュがついてくる気配がした。


(エスコートしようとしてくれたのはわかってる。わかってるけど、このまま並んで歩いたらまた顔が赤くなる)


 石畳を踏む足音が二つ、邸の扉へと近づいていく。


 扉が開いた。出迎えたのは初老の執事、セルゲイだった。長年ラズリエフ家に仕える、どんな事態にも動じない男だ。


 その彼が、一瞬だけ目を丸くした。


 お嬢様の隣に立つ、見慣れぬ黒髪の青年を見て。


 しかしそれは本当に一瞬のことで、次の瞬間には完璧な礼とともに二人を迎え入れていた。


「お帰りなさいませ、お嬢様。お連れ様もどうぞ」


「ただいま、セルゲイ。客間へお願いできる?」


「かしこまりました」


 案内された客間は、落ち着いた色調の、しかし海を望む大きな窓が印象的な部屋だった。


 ルカシュが窓の外に目をやった。夜の海が、月明かりを受けて光っている。


「……きれいな邸ですね」


「ありがとうございます」


 イリナはソファを勧め、自分も腰を下ろそうとした。


 その時、廊下から声がした。


「イリナ? 馬車が先に戻っておったが、お前はどこへ――」


 扉を開けて入ってきたアレクサンドルが、固まった。


 その隣でナターリアも固まった。


 客間のソファに、見知らぬ黒髪の青年が座っている。


 沈黙が三秒ほど続いた。


「……お父様、お母様。ただいま戻りました」


 イリナは努めて平然と言った。


「お連れしたい方がいまして。ヴォルコフ公爵家三男、ルカシュ・ヴォルコフ卿です」


 ルカシュが立ち上がり、静かに礼をした。


「はじめまして。突然お邪魔してしまい、申し訳ありません」


 またしても沈黙。


 アレクサンドルの視線がイリナに向いた。無言で「説明しろ」と言っていた。


 ナターリアの視線もイリナに向いた。こちらは無言で「どういうこと?」と言っていた。


(うん、説明は必要よね)


 イリナは小さく咳払いをした。


「……婚約者候補として、お連れしました」


 三秒。


「「は?」」


 二人の声が、きれいに揃った。



「……舞踏会で、何があった」


 アレクサンドルが静かに、しかし確実に「全部話せ」という圧を込めて言った。


「色々ありました」


「色々、では困る」


「王女殿下がヴォルコフ公爵家のご三男に婚約破棄を宣言されましたので」


「……それで?」


「お迎えしました」


「お迎え」


「はい、全力で」


 沈黙。


 アレクサンドルが額に手を当てた。ナターリアが口元を押さえた。笑いをこらえているのか、それとも別の何かをこらえているのかは、定かでなかった。


 その間、ルカシュはソファに静かに座っていた。


 混乱の渦中にあるラズリエフ家の三者を、穏やかな赤い瞳で眺めながら。その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。


 王宮では、笑う余裕などなかった。


 ただ耐えるだけだった。


 それがこの邸に来てから、もう二度も笑っていた。自分でも、少し驚いていた。


「……ヴォルコフ卿」


 ナターリアが、ルカシュに向き直った。公爵夫人らしい、穏やかしかし芯のある声だった。


「娘が大変なご無礼を」


「いいえ。……助けていただきました」


 その言葉は、飾りがなかった。


 ナターリアがアレクサンドルをちらりと見た。アレクサンドルも、ちらりと妻を見た。


 また、無言で語り合った。


 アレクサンドルが咳払いをした。


「……とりあえず、座りなさい、イリナ。お茶を持ってこさせる。話を、順番に聞こうじゃないか」


「はい、お父様」


 イリナがルカシュの隣にそっと腰を下ろした。


(なんとかなりそう)


 そっと息をついたイリナの隣で、ルカシュがまたごくかすかに、笑った気がした。



 お茶を持ってきたのは、ラズリエフ家に長く仕える侍女のマーシャだった。


 盆を持って入ってきた彼女は、客間の状況を一瞬で把握した。いつものお嬢様の席に見知らぬ黒髪の青年が座っており、旦那様と奥様が揃って微妙な顔をしており、お嬢様だけがなぜか妙に平然としている。


(……何があったんですか)


 と顔に書いてあったが、マーシャはさすがに長年の経験でそれを綺麗に隠しながら、一人一人の前にティーカップを置いた。


 できることなら、もう一杯分くらい時間をかけてお茶を注ぎたかった。


「マーシャ、ありがとう」


 ナターリアに促され、マーシャは一礼して客間を出た。


 扉が閉まった。


 全員がお茶に口をつけた。


「……では、イリナ。話してくれるか」


 アレクサンドルが言った。


「はい」


 イリナは膝の上で手を組んだ。


「まず、今日の舞踏会でミラーナ王女殿下が、ヴォルコフ卿に婚約破棄を宣言されました。理由は王家への不敬と職務上の不正行為、とのことで」


「……ほう」


「ただ、その罪状が先日のドラゴミルの身辺調査で出てきた王女絡みの案件とほぼ一致していまして。要するに、王女殿下ご自身の不正をヴォルコフ卿になすりつけた形です」


 アレクサンドルの眉がぴくりと動いた。ナターリアの目が細くなった。


「それで、お前は」


「黙っていられなかったので、出ました」


「出た、というのは」


「広間の中央に」


 沈黙。


「……続けなさい」


「ヴォルコフ卿に声をかけて、婚約を申し込みました」


「舞踏会の広間で」


「はい」


「大勢の前で」


「はい」


 アレクサンドルがまた額に手を当てた。ナターリアがお茶を一口飲んだ。


 ルカシュは静かに、成り行きを見守っていた。


「動機は二つあります」


 イリナは続けた。


「一つは単純に、頭にきたからです。冤罪だとわかっているのに、誰も声を上げなかったので」


「もう一つは」


「打算です」


 きっぱりと言った。


「ラズリエフ家の婿養子探しは、ご存知の通り難航しておりました。ヴォルコフ卿は家柄、能力、人柄、いずれも申し分ない。婚約破棄される前の王配候補だったということは帝王学も修めておられる。ラズリエフ家の婿養子として、これ以上の条件はないと判断しました」


「……それをヴォルコフ卿本人にも?」


 ナターリアが静かに聞いた。


「はい、馬車の中で全部話しました。打算も含めて」


 ナターリアがルカシュを見た。


「……ご不快でしたでしょうか」


「いいえ」


 ルカシュは首を振った。


「婚約が成立してから話すこともできたのに、先に話してくださいました。だから、お受けしました」


 アレクサンドルとナターリアが、またちらりと顔を見合わせた。


 そこへ、扉の外でかすかな音がした。


 全員の視線が扉に集まった。


 一瞬の沈黙の後、扉の隙間からすっとお茶のおかわりが差し入れられた。


 マーシャだった。


 顔は見えなかったが、扉がゆっくり閉まる瞬間、微かに気配が名残惜しそうだった。


「……盗み聞きとはいい度胸ね、マーシャ」


 ナターリアが穏やかに言った。


 扉の向こうで、小さく「申し訳ありません!」という声がして、足音が遠ざかっていった。


 客間に、くすりとした笑いが落ちた。


 ルカシュも、今度は隠さずに、少し笑った。


「こんな娘なのですが、本当に婚約していただいていいのですか? 考え直すなら今ですよ?」


 アレクサンドルが言った。ナターリアも、静かにルカシュを見ていた。


 二人とも、本気だった。娘が可愛いからこそ、相手に逃げ道を用意していた。


 ルカシュは、その二つの視線を正面から受け止めた。


 そして、深く頭を下げた。


「ええ。私でよろしければ、喜んで」


 間髪入れずだった。


 今度こそ、迷いがなかった。


 イリナの頬が、じわりと赤くなった。さっきとは違う種類の赤さだった。


 アレクサンドルが、長く息をついた。それから、口元をほころばせた。


「……では、改めて。ラズリエフ家へようこそ、ルカシュ卿」


 ナターリアが、柔らかく微笑んだ。


「どうぞ、よろしくお願いしますね」


 客間に、静かな温かさが満ちた。


 窓の外では、夜の海が月明かりの中で穏やかに光っていた。



 案内された客室は、広間とは別の棟にあった。


 執事のセルゲイが「ご不便があればお申し付けください」と言い残して扉を閉めた後、ルカシュはしばらくその場に立っていた。


 静かだった。


 王宮の自室とは、種類の違う静けさだった。あちらは、音を立ててはいけないという静けさだった。こちらは、ただ穏やかな静けさだった。


 窓に近づいた。


 海が見えた。


 夜の帳の中で、波が月明かりを受けて光っている。寄せては返す水音が、遠くかすかに聞こえた。


(……海か)


 王都では見られない景色だった。


 今夜だけで、初めてのことがいくつあっただろう。


 冤罪を、誰かが黙っていられないと言った。


 打算を、婚約前に正直に話してくれた。


 呪われた色を、迷信だと一切動じずに言った。


 親が、逃げ道を用意した上で「喜んで」と言った自分を、笑顔で迎えた。


 侍女が盗み聞きをして、叱られた。


 そのどれもが、ルカシュには初めてだった。


(妙な家だ)


 思いながら、口元が緩んだ。


 悪くない、と思った。


 今夜、自分は三度笑った。王宮にいた頃、一月に何度笑っていただろう。


 窓枠に手をついて、しばらく海を眺めた。


 波の音が、一定のリズムで繰り返している。


 明日になれば、両家の間で正式な話が始まるだろう。自分の立場も、これから大きく変わる。不安がないと言えば嘘になる。


 それでも。


(悪くない)


 もう一度、そう思った。


 ルカシュは窓を少し開けた。


 夜の海の風が、部屋に流れ込んできた。潮の香りがした。


 目を閉じて、その風を受けた。

誤字報告ありがとうございます!


訂正いたしました。


今後ともよろしくお願いします。

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