――番外編・新婚旅行編(4/5) あなたが見つけたことにしてください
三日目、最後に予定されていた視察地へ向かう道すがら、私たちは少しだけ寄り道をすることにした。行き先を決めたのは、私だった。
「ここは……」
馬車を降りたルカシュが、目の前に広がる浜辺を見て呟いた。
「私が生まれた場所です」
正確には、生まれたのは領主館だ。けれど、幼い頃の私にとって、世界の中心はいつもこの浜辺だった。
潮風が強く、波の音が思ったより近い。夕日はまだ完全には落ちておらず、海面に赤みがかった光が長く伸びていた。今度こそ、本物の夕日だった。
「これまで案内した港も、村も、それにこれから向かう場所も、みんなここから始まっています。……私の、原点のような場所です」
ルカシュは何も言わず、私の隣に並んで歩き出した。砂を踏む音が、二人分、重なる。
しばらく歩いたところで、彼がふと足を止めた。
「セルゲイから、少し聞いたことがあります」
「何をです」
「幼い頃のあなたが、よくここで転んで泣いていた、と」
私は、思わず足を止めた。
「……セルゲイ、余計なことを」
「隠していたわけではないのでしょう?」
「隠してはいませんが、好んで話すことでもありません」
私は視線を海の方へ逸らした。潮風のせいにして、頬が少し熱いのをごまかす。
「昔の私なんて、知っても幻滅するだけです」
言ってから、少し後悔した。今の私は、外交を任され、領地の隅々まで把握し、誰もが「さすが」と言う公爵令嬢だ。そのイメージと、砂まみれで泣いていた子供の姿は、あまりにも遠い。
「なぜ?」
ルカシュの声に、迷いはなかった。
「なぜ、幻滅すると?」
「……それは」
言葉に詰まった。理由なら、いくらでも並べられるはずだった。けれど、いざ聞かれると、どれも薄っぺらく思えた。
「今の君を作ったものなら、私は知りたいです」
彼は、まっすぐに私を見ていた。
「完璧な公爵令嬢としてのあなたも、もちろん知っています。けれど、それだけがあなたのすべてだとは、思っていません」
波の音が、一瞬だけ遠くなった気がした。
「……昔、ここで貝殻を拾って、ずっと大事に持っていたんです」
私は、観念したように言った。言うつもりはなかったのに、気づけば口が動いていた。
「小さい頃の、私の宝物でした」
「今も?」
「……ありません」
私は首を振った。
「もう、子供ではありませんから」
引き出しの奥にしまい込んで、いつの間にか、どこにやったのかもわからなくなった。公爵令嬢としての日々に忙殺されて、そんなものを持っていたことすら、長い間忘れていた。
ルカシュは、少しの間、黙って波打ち際を見つめていた。
「なら」
そして、静かに言った。
「また探しましょう」
「……え?」
「貝殻です。今のあなたが、今、気に入るものを」
彼はしゃがみ込み、足元の砂を軽く払った。そこには、いくつかの小さな貝殻が、波に打ち上げられたまま光っていた。
「昔のものを、取り戻す必要はありません。ただ、新しく作れば良いのだと思います」
私は、その言葉に、しばらく何も言えなかった。
過去を悼むのでも、無理に美化するのでもない。ただ、今から積み上げていけばいい――そう言われた気がした。
(この人は……)
胸の奥が、じわりと熱くなる。
彼は、いつも私を「救おう」とはしなかった。傷を憐れむのでも、過去を掘り返して同情するのでもなく、ただ隣に立って、これからのことを一緒に見ようとする。
それは、私が彼にしてきたことと、よく似ていた。
「……一つだけ」
私はしゃがみ込み、白く小さな貝殻を一つ、砂の中から拾い上げた。波に洗われて、角の丸くなったそれを、そっと彼の手のひらに乗せる。
「これは、あなたが見つけたことにしてください」
「私が?」
「これまで、あなたはたくさんの人に、色々なものを見つけてもらいました。……だから、一つくらい、あなたが見つける番があってもいいでしょう」
ルカシュは、手のひらの上の小さな貝殻を、しばらくじっと見つめていた。
それから、その貝殻をそっと握り込み、初めて、迷いのない声で言った。
「……大切にします」
夕日が、二人の影を長く砂浜に落としていた。私はその影が、少しも重なることなく、それでもずっと並んでいることに気づいて、なぜだか泣きたいような気持ちになった。




