――番外編・新婚旅行編(3/5)「宝石みたい」と「当然です」
二日目、最初に向かったのは、港に隣接する小さな市場だった。
漁の合間の主婦たちや、走り回る子供たちで賑わうその一角を、私たちはセルゲイの案内で歩いていた。ルカシュは相変わらず一歩後ろに控え、しかし先ほどまでとは、どこか纏う空気が違って見えた。
不意に、小さな影が私たちの前に飛び出してきた。
四つか五つほどの女の子だった。両手に貝殻を握りしめ、こちらを見上げている。
「あ」
その子は、私ではなく、ルカシュの方をまっすぐに見ていた。目を丸くしたまま、しばらく動かなかった。
私は、内心で身構えた。この反応には覚えがある。黒髪と赤い瞳――「呪われた色」と呼ばれてきたその色に、初めて出会った人間が見せる反応。怯えか、あるいは無遠慮な好奇の目か。
ルカシュも、同じことを予期したのだろう。表情はいつも通り穏やかなまま、けれどその奥で、ほんの一瞬だけ、身構えるような硬さが過ぎった。
「わあ」
女の子の口から出たのは、そのどちらでもなかった。
「宝石みたい!」
満面の笑みだった。握りしめていた貝殻を突き出して、興奮した様子でこちらに見せてくる。
「見て見て、この貝殻とおんなじ色! ううん、もっときれい!」
ルカシュは、何も言えずにいた。
私はその横顔を見て、笑いをこらえるのに苦労した。彼は今まで、外交の場でも、王宮の陰口の中でも、驚くほど表情を崩さなかった人だ。それが今、五歳にも満たない女の子の一言で、完全に固まっている。
(王宮の魑魅魍魎を相手にしても顔色一つ変えなかった人が……)
内心でそう思いながらも、私は口には出さなかった。今この瞬間だけは、邪魔をしたくなかった。
「こら、旦那様に失礼でしょう」
慌てて母親らしき女性が駆け寄ってきて、女の子の肩を抱いた。けれど、ルカシュは静かに首を振った。
「いえ」
短く言ってから、彼は膝を折り、女の子と目線を合わせた。
「……ありがとう」
それだけだった。けれど、その声はいつもより、ほんの少しだけ掠れていた。
女の子は、褒められたと思ったのか、得意げに笑って、また別の貝殻を探しに走っていった。
母親が何度も頭を下げながら去っていった後も、ルカシュはしばらくその場にしゃがんだままだった。
私は、あえて何も言わずに、その隣に並んでしゃがんだ。
「……綺麗な色、というのは」
やがて、彼がぽつりと呟いた。
「言われたことは、あります。皮肉として」
私は黙って続きを待った。
「けれど、宝石みたいだと言われたのは、初めてでした」
その声には、戸惑いと、何か言葉にならないものが同時に滲んでいた。宝石とは、珍しく、価値があり、大切にされるもの。彼がこれまで一度も、自分の色をそう呼ばれたことがなかったのだと、私はその横顔から悟った。
「子供は、噂も偏見も知りませんから」
私はそっと言った。
「ただ、見たままを言うだけです」
ルカシュは、少しの間、私の言葉を噛みしめるように黙っていた。それから、立ち上がりながら、小さく笑った。
「……そうですね」
その笑みは、いつもの穏やかな微笑みとは、少しだけ違って見えた。
(あ)
私は、思わずその変化に見入ってしまった。
これまで彼が浮かべてきた笑みは、いつも、誰かを不安にさせないために選んでいたものだった。礼儀であり、生きるために身につけた作法だった。それを偽物だったとは思わない。けれど今のそれは、もっと不器用で、もっと不慣れで、誰のためでもなく、ただ零れ出たものに見えた。
「イリナ?」
「……いえ」
私は慌てて視線を逸らした。
(今の、ずるい)
内心で叫びながら、私はまだ何も知らない振りをして、次の視察先へと歩き出した。
◇◇◇
二日目最後の視察地は、領主館にほど近い小さな村だった。
二日目の視察の締めくくりとして、私たちは村長の家で軽い茶会に招かれていた。堅苦しいものではなく、村の主だった者たちが顔を出す、ごく内輪の集まりだった。
低い天井に、干した薬草の匂いが染み付いた質素な居間だった。窓は西向きに小さく開いているだけで、まだ高い位置にある日差しが、その隙間から白っぽく差し込んでいる。夕暮れには、まだ遠い時間だった。
「本日はお二方に来ていただけて、村の者たちも喜んでおります」
村長の妻が、朗らかに茶を注ぎながら言った。年配の女性で、この村では顔役に近い立場だと聞いている。
「イリナ様のことは、皆よく存じ上げております。……でも」
彼女は、ちらりとルカシュの方に視線を向けた。
「旦那様のことは、まだあまり」
その一言に、周囲の空気がわずかに緊張したのがわかった。当然だろう。呪われた色を持つ男が、公爵家に婿入りした。その事実だけが先に届いていて、本人がどういう人物かは、まだ誰も知らない。
けれど、続く言葉は、私が身構えたものとは違っていた。
「――でも、ここに来る道すがら、港で聞きましたよ」
村長の妻は、微笑んでいた。
「漁師のグリゴリーの爺さんが、えらく気に入っておりましたね。あの人は滅多に他人を褒めない人なのに」
「それに、市場の子供たちの間でも、もう噂です。旦那様の瞳、宝石みたいだって」
私は思わず、隣に座るルカシュの様子を窺った。彼は静かに茶を口にしていたが、その耳の先が、ほんの少しだけ赤くなっている気がした。
「旦那様は」
村長の妻は、あらためて、まっすぐにルカシュを見た。
「本当に、イリナ様を大切にされているのですね」
問いかけというより、確認に近い口調だった。この場にいる誰もが、答えを聞くまでもないと思っているような、そんな空気だった。
だからこそ――。
「当然です」
ルカシュは、湯呑みを置く間もなく、即答した。
一切の迷いも、間もなかった。
場が、一瞬、静かになった。村長の妻が目を丸くし、それから声を上げて笑い出す。
「まあ、まあ! 良いお返事だこと」
周囲からも、笑いと拍手めいた声が上がった。
私は、といえば。
(な……)
表向きは、次期公爵夫人らしい微笑みを保っていた、はずだった。少なくとも自分ではそのつもりだった。
けれど内心は、まったく違っていた。
(今、何と言った? 当然? 当然って言った? 聞き間違いじゃなく?)
ロマンス小説なら、ここで主人公は頬を染めて俯くところだ。けれど私は次期公爵夫人だ。人前でみっともなく動揺するわけにはいかない。いかないのだが。
(心の準備というものがあるでしょう、普通は……!)
隣を見ると、ルカシュは何事もなかったかのように、また茶を口にしていた。まるで、天気の話でもしたかのような顔で。
本人には、まったく自覚がないのだ。自分が今、何をどれだけの威力で放ったか、これっぽっちも理解していない。
それが、余計に始末が悪かった。
「イリナ様、顔が赤くなっておいでですよ」
村長の妻が、からかうように言う。
「……夕日のせいです」
私は、まだ日も高い時間だというのに、そう言い切った。誰も、その言葉を信じてはいなかったと思う。
その夜も、私たちは早々に部屋に戻った。互いに、昼間のことをあまり蒸し返さないまま、静かに眠りについた。ただ、私は寝入る間際まで、彼の「当然です」を頭の中で何度も繰り返していた気がする。




