――番外編・新婚旅行編(2/5)「今、誰の隣に立っているのか」を見た漁師
二番目の視察地に着いた頃、私は組合長との打ち合わせのために一度、ルカシュと離れることになった。
「少しだけ席を外しますね」
「ええ、行ってらっしゃい」
彼は変わらぬ様子で頷いたが、内心では先ほどの言葉のことを、まだ少し引きずっているのではないか――そんな気がしていた。
打ち合わせは思ったより長引いた。戻る道すがら、私は港の隅で、ルカシュが一人の老爺と向き合っているのを見つけた。
日に焼けた顔に、深い皺を刻んだ老漁師だった。名はたしか、グリゴリー。この港で一番長く漁をしている男だと、資料にあった。
私は声をかけずに、少し離れた場所で足を止めた。
「旦那様は」
グリゴリーが、しわがれた声で切り出すのが聞こえた。
「イリナ様を、幸せにしてくださいますかね」
その問いに、ルカシュは一瞬、言葉に詰まったように見えた。
私は知っている。あの間が何なのかを。
王宮にいた頃の彼なら、きっとこう答えていた。「私などが、幸せにできるかはわかりません」と。自分を主語にすることを、まるで許されていないかのように。
けれど、今度は違った。
一瞬の後、ルカシュは老爺の目をまっすぐに見て、静かに答えた。
「はい」
短い返答だった。それだけで終わらせても良かったはずなのに、彼はもう一言、付け加えた。
「彼女が望むものを、守れるよう努力します」
それは誓いというより、事実を確認するような口調だった。だからこそ、私の胸には妙に重く響いた。
グリゴリーは、しばらくルカシュの顔をじっと見ていた。値踏みするような、それでいて何かを確かめるような目だった。
「……いい目をしてなさる」
やがて、そう言って、皺だらけの顔をくしゃりと崩して笑った。
「昔は、噂だけ聞いてどうなることかと思っとりましたが」
その一言に、ルカシュの肩が微かに動いた。噂。彼が何を指しているか、聞かなくてもわかった。
「呪われた色、というやつですかね」
ルカシュが、静かに聞き返した。この港でも、その噂は届いていたらしい。声には、諦めにも似た響きがあった。
「さあ、それは知らんが」
グリゴリーは、ふん、と鼻を鳴らした。
「わしらが見るのは、その男が今、誰の隣に立って、何をしようとしているか。それだけです」
それだけ言うと、老爺は網を担ぎ直し、港の方へと戻っていった。
ルカシュは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
私は、まだ声をかけられずにいた。彼の横顔が、いつもより少しだけ、無防備に見えたからだ。
これまでの彼は、常に「審査される側」だった。血筋、色、王宮での立ち居振る舞い――何もかもが値踏みの対象で、そこに彼の意志が入り込む余地はほとんどなかった。
けれど今、グリゴリーが彼に向けたのは、まったく違う種類の視線だった。
「イリナ様を幸せにしてくれますかね」
それは審査ではない。期待だ。
彼が誰かを幸せにできる存在として、初めて数えられた瞬間だった。
「ルカシュ」
私はようやく声をかけた。彼はすぐにいつもの表情に戻り、こちらを振り返る。
「イリナ。打ち合わせは」
「終わりました。……何かありました?」
「いえ」
彼は短く答え、それから、少しだけ迷うように付け加えた。
「良い方に、会いました」
それだけだった。けれど、その一言に込められたものの重さを、私は知っている気がした。
◇◇◇
その夜、宿泊先となった漁村の小さな宿で、私たちはようやく一日の疲れを下ろした。
窓の外では、まだ波の音が絶え間なく続いている。
「今日は、疲れましたね」
「……はい」
ルカシュは、静かに頷いてから、少し考えるように付け加えた。
「でも、不思議な一日でした」
「不思議?」
「はい。……うまく、言葉にできませんが」
それ以上は、続かなかった。けれど、その横顔には、朝とは違う、どこか柔らかいものが滲んでいるように見えた。
明日はまた、別の場所へ向かう。私たちはそれだけ言葉を交わして、その夜は早くに休んだ。




