――番外編・新婚旅行編(1/5) 新婚旅行のはずが、視察予定表を渡されました
※本編完結後の番外編です。
新婚旅行のはずだった。
少なくとも、出発前の私はそう信じていた。
「イリナ様、こちらが今回の視察予定表です」
セルゲイから恭しく差し出された分厚い書類の束を見て、私は動く口をどう動かせばいいのか、少しの間わからなくなった。
視察予定表。
新婚旅行に、視察予定表。
「……セルゲイ、これは何かの間違いでは」
「間違いではございません。ラズリエフ公爵領沿岸部、全六箇所を三日間で回る視察日程でございます」
「三日間で、六箇所……」
「効率を考慮いたしました」
にこりともせず、セルゲイは続けた。
「新婚旅行としても、十分な時間はご用意しております」
本当にそうだろうか。少なくとも、彼の言う「十分な時間」の基準を、私は一切信用していない。
にこりともせず、しかし心なしか楽しそうにセルゲイは告げた。この執事は、私が生まれる前からこの顔で驚くべきことを平然と告げてくる人だ。
「父上……」
「悪く思うな、イリナ」
書斎から顔を出した父――アレクサンドル・ラズリエフ公爵は、まったく悪く思っていない顔で言った。
「お前たちの新婚旅行が、そのまま次期公爵夫妻のお披露目になる。一石二鳥だろう」
一石二鳥ではない。だいたい石が一個も飛んでいない。飛んでいるのは陳情書だけだ。
とはいえ、こうなることは半分予想していた。ラズリエフ家に生まれた時点で、私の人生に「完全な休暇」という選択肢はほとんど存在しない。それは知っている。知っているが、新婚旅行にまで陳情書がついてくるとは、さすがに乙女心が黙っていない。
(ロマンス小説だったら、絶対こんな展開ないのに……)
内心でそう呟きながら、私は表向き、公爵令嬢らしい微笑みを浮かべて頷いた。
「わかりました。喜んでお受けします」
我ながら、よく言えたと思う。
隣に立つ夫――ルカシュ・ヴォルコフは、その一部始終を静かな顔で見ていた。動揺している様子はない。むしろ、どこか覚悟を決めたような横顔だった。
「私も、お力になれるよう努めます」
「婿殿は本当に真面目だな」
父が満足げに笑う。ルカシュは軽く目を伏せただけで、それ以上は何も言わなかった。
こうして、私たちの新婚旅行――もとい、次期公爵夫妻としての初仕事は、幕を開けた。
◇◇◇
最初の視察地は、領内で最も古い漁港だった。
「この港は冬季の北風で波が高くなる年が続いています。防波堤の改修について、すでに漁業組合とは大枠で合意を得ています。予算については父の方で調整を」
私は手元の資料を見ることもなく、すらすらと説明した。長年、父の視察に同行してきた経験がここで生きる。数字も、人の名前も、誰がどの発言に不満を持っているかも、だいたい頭に入っている。
「さすがイリナ様だ」
「若いのにたいしたもんだ」
港で網を繕っていた漁師たちが、口々にそう言って笑う。見慣れた反応だった。子供の頃からずっと、こうして誰かに「さすが」と言われながら育ってきた。
ふと隣を見ると、ルカシュは静かに私の話を聞いていた。相槌を打つでもなく、口を挟むでもなく、ただそこに立っている。
(あ……)
一瞬、彼が何も言わないことに、居心地の悪さのようなものを感じかけた。彼は財政にも税制にも詳しい。この場で口を挟む余地は、本来いくらでもあるはずだった。
けれど、ルカシュの表情を見て、それは杞憂だとすぐにわかった。
彼は、落ち込んでいるのでも、萎縮しているのでもなかった。
ただ、少し驚いたような、それでいてどこか眩しそうな目で、この光景そのものを見つめていた。
「……ルカシュ?」
「いえ」
彼は小さく首を振った。それから、独り言のように呟いた。
「王宮では、誰かの名前を呼ぶとき、大抵その前に爵位か家名がついていました。……ここでは、違うのですね」
「え?」
「『イリナ様』と、それだけで呼ぶ。それだけで、こんなに――」
言葉を選ぶように、彼は一度口をつぐんだ。
「温かく聞こえるのかと、少し驚きました」
私は、何と返せばいいのかわからなかった。それは私にとって、生まれた時からずっと当たり前だった響きだ。当たり前すぎて、それがどれほど得難いものなのか、考えたこともなかった。
ルカシュは視線を港の方へ戻した。漁師たちが、私の名を呼びながら笑っている。彼はそれを、まるで知らない国の景色でも眺めるように見ていた。
「……私は」
そこで、ルカシュは一度言葉を切った。
言うつもりだったのか、言うつもりではなかったのか、本人にもわかっていないような間だった。
「この隣に、立っていていいのでしょうか」
問いかけというより、ただ零れ落ちた言葉だった。彼はそれを口にした自分に、少し驚いているようにも見えた。
私は、すぐには何も言えなかった。
彼は、卑下しているわけではない。落ち込んでいるのでもない。ただ、目の前にある光景をどう受け止めればいいのか、本当にわからずにいるだけだった。
(この人は――)
そこまで考えて、私は自分の理解が少しずれていたことに気づいた。
彼は、愛されることを知らないのではない。
彼は、自分が誰かに必要とされることを、信じる術を知らないのだ。
その違いに気づいた瞬間、胸の奥が小さく軋んだ。
私が何か言うより先に、セルゲイが次の視察先への移動を告げる声が響いた。ルカシュはすぐにいつもの落ち着いた表情に戻り、私に手を差し出した。
「参りましょう、イリナ」
「……ええ」
私はその手を取りながら、彼が零した一言が、胸の奥にそのまま残っているのを感じていた。
港を出る馬車の中で、私はそっと思う。
(教えてあげたい)
ここが、あなたのいていい場所だと。
言葉ではなく、これから起こることで。
本編を最後までお読みいただき、応援してくださった皆様、本当にありがとうございます。
感謝を込めて、新婚旅行編をお届けします。
全5話、毎日一話ずつ更新予定です。




