エピローグ 波の音と、初めての笑顔
白い。
ルカシュが最初に思ったのは、それだった。
ラズリア領の初夏は、白い光に満ちていた。海からの風が、式場に設えられた白い花々を揺らしていた。青い空と、青い海と、白い花。王都では見たことのない色の組み合わせだった。
式場には、両家の関係者と領地の人々が集まっていた。
ヴォルコフ家からは、父ヴィクトルと、兄のアンドレイが来ていた。二人とも、複雑な顔をしていた。それでも来た、ということが、ルカシュには十分だった。
乳母のオルガも来ていた。式が始まる前、人目も憚らず泣きながらルカシュの手を握った。
「よかった。本当によかった」
それだけ言った。
ルカシュは、何も言えなかった。ただ、頷いた。
アレクサンドルとナターリアは、式の朝からずっと笑顔だった。特にナターリアは、イリナの支度を手伝いながら何度も目を拭っていたらしい、とセルゲイから聞いた。
そのセルゲイも、執事の仮面を完璧に保ちながら、しかし目が赤かった。
マーシャに至っては、もはや隠す気がなかった。
(賑やかな家だ)
ルカシュは思いながら、扉の方を見た。
音楽が変わった。
扉が、開いた。
白いドレスのイリナが、アレクサンドルに手を引かれて歩いてきた。
ルカシュは、しばらく息を忘れた。
栗色の髪が、光を受けて赤みがかって見えた。青灰色の瞳が、真っ直ぐにルカシュを見ていた。
緊張しているのか、頬が少し赤かった。
それでも、歩みは揺るがなかった。
(この人が)
あの夜、舞踏会の広間から自分を連れ出してくれた人が。
馬車の中で、打算も含めて全部正直に話してくれた人が。
呪われた色だと言ったら、迷信ですよと一切動じなかった人が。
震える手で、それでも王女の前に立ち続けた人が。
今、白いドレスを着て、自分のもとへ歩いてきている。
アレクサンドルがイリナの手をルカシュに渡した。
その瞬間、小さな声で言った。
「頼みましたよ、婿殿」
「……はい」
ルカシュは、イリナの手を受け取った。
イリナが、小さく囁いた。
「緊張していますか?」
「少し」
「私も」
「顔に出ていませんよ」
「貴方もです」
二人とも、小さく笑った。
式が、始まった。
誓いの言葉を読み上げながら、ルカシュはあの夜のことを思い出していた。
王宮の客室で、窓を開けて、海の風を受けた夜。
今夜はどんな退屈が待っているのだろう、と思っていたはずが、気づけばここにいた。
あの夜、三度笑った。
それが今では、笑うことを数えなくなっていた。
数える必要が、なくなっていた。
「……ルカシュ・ヴォルコフ卿。イリナ・ラズリエフ嬢を、生涯の伴侶として迎えることを誓いますか」
「誓います」
即答だった。
迷いは、なかった。
イリナの青灰色の瞳が、少し潤んだ。
(泣きそうになっている)
と思ったら、こちらまでそうなりそうだった。
「……笑いましたね、今」
イリナが小声で言った。
「笑っていません」
「笑いました」
「……少し」
式場に、くすりとした笑いが漏れた。
式が終わり、披露の宴が緩やかに続く中、ルカシュは中庭に出ていた。
「ルカシュ」
振り返ると、アンドレイが立っていた。
珍しく、一人ではなかった。
隣に、ヴィクトルがいた。
ルカシュは少し驚いて、それから静かに頭を下げた。
「……兄上、父上」
アンドレイが、少し強引な手つきでヴィクトルの背を押した。
「父上、どうぞ」
ヴィクトルが、アンドレイを一瞥した。息子に背を押されるとは思っていなかったのだろう。しかし振り払いもしなかった。
しばらく、三人とも黙っていた。
波の音だけが、遠くで続いていた。
ヴィクトルが、ゆっくりと口を開いた。
「……元気そうだな」
「はい」
「そうか」
また沈黙が落ちた。
「父上」
ルカシュが、静かに言った。
「式に来てくださって、ありがとうございました」
ヴィクトルが、顔を上げた。
「……そんなことか」
「そんなことです」
「当然のことをしたまでだ」
「それでも」
ルカシュは、少し笑った。
「嬉しかったです」
ヴィクトルが、何か言おうとした。言葉が出なかった。
喉が動いた。それだけだった。
アンドレイが、小さく息をついた。そして、ルカシュの肩を一度だけ叩いた。強く、しかし乱暴ではなく。
「……幸せになれ」
「はい」
「イリナ嬢は、良い方だ」
「そうでしょう」
「お前が言うと、腹が立つな」
「すみません」
二人とも、小さく笑った。
ヴィクトルが、ようやく口を開いた。
「……達者でな」
たったそれだけだった。
でも、ヴィクトルにしては、それは長い言葉だったとルカシュは思った。
「はい、父上」
ヴィクトルが踵を返した。アンドレイがルカシュを見て、小さく頷いた。
二人が宴の席に戻っていく背中を、ルカシュはしばらく見送った。
和解、というには程遠かった。
でも、扉が少し開いた気がした。
それで十分だった。
「ルカシュ卿」
中庭の入り口に、イリナが立っていた。白いドレスのまま、少し心配そうな顔をしていた。
「こちらにいらしたんですね。探しましたよ」
「すみません、少し」
「お父様とお兄様と、話せましたか?」
ルカシュは少し驚いた。
「……見ていたんですか」
「少しだけ。邪魔をしたくなかったので」
イリナが、隣に並んだ。
「どうでしたか」
「……扉が、少し開いた気がします」
「それは良かった」
イリナが、静かに笑った。
「いつか、もう少し開くといいですね」
「そうですね」
ルカシュは空を見上げた。
初夏の青い空が、どこまでも広がっていた。
「……イリナ嬢」
「なんですか」
「イリナ、と呼んでもいいですか」
イリナが、一瞬だけ固まった。
それから、耳まで赤くなった。
「……どうぞ」
「イリナ」
「……なんですか」
「ありがとう」
イリナが、また赤くなった。今度はさっきより深く。
しばらく黙っていた。
海の風が、白い花を揺らしていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……ルカシュ」
「はい」
「こちらこそ」
たったそれだけだった。
でも、それで十分だった。
二人とも、しばらく黙っていた。
青い空の下、波の音が続いていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
合理的な令嬢イリナと不遇だった令息ルカシュの恋物語楽しんで頂けましたでしょうか?
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今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
次回作は
8/9(日)より
「婚約破棄された悪役令嬢は、自分を愛することから始めました 」
完璧な悪役令嬢を演じ続けた女性が、本当の自分を取り戻す物語。
そして――愛を知らなかった王子が、生涯ただ一人の女性を愛することを知る物語。
婚約破棄から始まる、辺境での再会。
「役割」ではなく「その人自身」を愛する、悪役令嬢と人魚王子の初恋譚。
『婚約破棄された悪役令嬢は、今世でも悪役令嬢として生きたい』シリーズ第一弾。
8/2(日)朝7:00より連載開始しました。毎日更新中!
「『貴様さえいなければ』と追放された悪役令嬢ですが、『深淵の魔女』は黒歴史の設定です。本当に伝説にしないでください。」
https://ncode.syosetu.com/n9649mj/
世界に退屈していた天才王子と、研究しか見えていない追放令嬢。
少しずつ惹かれ合う二人が辿り着くのは、離宮での研究生活だけではなく、新しい国の未来を築くという選択だった。
「ざまぁ」の先で、本当の自由を見つけた一人の研究者の恋と人生の物語です。
最後になりますが、ひとつ創作について興味を持っていることがあります。
私自身は物語を書く際、ある程度結末を決めてから書き始めるタイプなのですが、結末を決めずに長編を書き始め、それでも納得できる形で完結させた方の思考プロセスに以前から興味があります。
もしそのような経験をお持ちの方がいらっしゃいましたら、活動報告の方にコメントいただけると嬉しいです。もちろん、メッセージもお待ちしております。




