――番外編・新婚旅行編(5/5・完) また、来たいですね
夕食を終え、領主館の一室で、ようやく本当の意味で二人きりになった。
窓の外はすっかり暗く、遠くに港の灯りがぽつぽつと見える。ルカシュは寝椅子の隣に腰掛け、私が渡した貝殻を、まだ大切そうに手のひらの上で転がしていた。
「……ルカシュ」
「はい」
「一つ、言っておきたいことがあります」
「何でしょう」
「昼間のことです」
私は、あえて何気ない口調を装いながら切り出した。
「村長のお屋敷で、あなたが」
「ああ」
彼は、すぐに思い当たったようだった。悪びれる様子もなく。
「『当然です』の件ですか」
「……自覚はあったんですね」
「事実を答えただけです。何か問題が?」
「問題しかありません」
私は思わず声を強めた。
「ああいうことを、あの流れで、一切の迷いもなく即答するのは、反則です」
「反則、ですか」
「そうです。心の準備というものがあるでしょう、普通は」
ルカシュは、少しの間、私の言葉を検討するように黙っていた。それから、静かに言った。
「事実を、事実として言っただけです。それの、どこがいけないのでしょう」
「……そういうところです」
私は、深く息を吐いた。
「あなたは、自分の言葉がどれだけの威力を持っているか、もう少し自覚した方がいいと思います」
「威力、ですか」
「あります。かなり」
「……よくわかりませんが」
彼は本気で困惑した顔をしていた。演技でも謙遜でもなく、本当にわかっていない。それが、余計に始末が悪い。
私は、思わず小さく噴き出した。
「イリナ嬢?」
「イリナ、です。もう」
「……イリナ」
その響きに、まだ少し慣れていないような、小さな間があった。私は、それが嫌いではなかった。
「今日は、疲れましたね」
私は話題を変えるように言った。視察に、村での応対に、それから――色々な意味で、長い一日だった。
「そうですね」
彼は頷いてから、少し考えるように付け加えた。
「けれど、楽しかったです」
私は、その一言に、思わず彼の顔を見た。
「……楽しかった?」
「はい」
迷いのない答えだった。
「これまでの視察は、いつも仕事でした。数字を合わせ、書類を整え、失礼のないように振る舞う。それだけでした」
彼は、手の中の貝殻に視線を落とした。
「けれど、今回の旅は違いました。誰かに名前を呼ばれて、誰かに褒められて、誰かに――探し物を頼まれて」
彼は、そこで小さく笑った。
「私はどうやら、あなたの故郷が、気に入ったようです」
「……ルカシュ」
「また、来たいですね」
その一言に、私は思わず言葉を失った。
たったそれだけの言葉が、これほどの重みを持つとは、彼は気づいていないのだろう。「また来たい場所」ができるということが、彼にとってどれほど遠いものだったか。
「笑っていません」
「え?」
「今、笑いましたか」
「……笑っていません」
私は咄嗟にそう返したが、頬が緩んでいるのは、自分でもわかっていた。
「笑いました」
ルカシュは、確信を持ってそう言った。以前にも、こんなやり取りをした覚えがある。あの夜――彼が初めて、私の前で心を許した夜のことを思い出す。
「……少し」
私は、観念して認めた。
ルカシュは、それを聞いて、今度こそ本当に、迷いなく笑った。作られたものでも、礼儀のためのものでもない、ただ嬉しいから浮かんだ笑みだった。
窓の外では、波の音が静かに続いている。
「あなたは、もう少し自覚してください」
私は、あらためて言った。
「何をですか」
「……そういうところです」
彼にはまだ、伝わっていないようだった。けれど、それでいいと思った。
この人が、ゆっくりとでも、自分が愛されて当然の存在なのだと信じられるようになるまで、私は何度でも、同じ言葉を繰り返すつもりだった。
会話が途切れた後も、ルカシュはしばらく黙っていた。手の中の貝殻を、何度も、確かめるように裏返している。
「……市場で、子供に言われました」
やがて、独り言のように、彼が呟いた。
「宝石みたい、と」
「ええ」
「グリゴリー殿にも、言われました。今、何をしようとしているか、それだけを見ると」
彼は、貝殻を見つめたまま、続けた。
「私はずっと、色や血筋で判断される側でした。何を積み上げても、そこに戻ってしまう。……そういうものだと、思っていました」
私は、黙って続きを待った。
「けれど、この三日間で、誰も一度も、そのことを口にしませんでした。代わりに、名前を呼ばれて、期待されて、宝石みたいだと言われて」
彼は、少し困ったように眉を寄せた。
「そして、私は『また来たい』と言いました。……自分でも、驚いています」
「驚くようなことですか?」
「はい」
迷いのない即答だった。
「私にとって、『また来たい場所』ができるというのは、これまで一度もなかったことなので」
私は、何と返せばいいのかわからなかった。ただ、胸の奥が、じわりと熱くなるのを感じていた。
ルカシュは、手の中の貝殻を、もう一度そっと握り込んだ。
「……これは」
「はい」
「初めて、誰かが私のために拾ってくれたものなのですね」
その声は、確認というより、ようやく実感が追いついたような響きだった。
私は、しばらく彼の横顔を見つめてから、静かに言った。
「あなたは、自分がどれだけ嬉しいことを言っているか、まったくわかっていませんね」
「……そうでしょうか」
「ええ。まったく」
私は小さく笑った。それは、からかいでも、呆れでもなく、ただ、この人の隣にいられることが嬉しいだけの笑みだった。
「今日は、もう休みましょう」
「そうですね」
ルカシュは頷きながら、貝殻を枕元にそっと置いた。それから、少し考えて、結局は手放さず、もう一度、そっと握り直した。
その様子を見て、私はまた、笑いをこらえるのに苦労した。
(この人が、こんな小さなものを、宝物にする日が来るなんて)
数ヶ月前までの彼は、自分の感情をどこに置けばいいのかさえ、うまくわかっていないような人だった。それが今、浜辺で拾った貝殻ひとつを、こんなにも大切そうに握っている。
私は、ふと気づく。
私が彼を救ったのだと、どこかでそう思っていたのかもしれない。けれど、違う。私はただ、隣を歩いていただけだ。ここまで歩いてきたのは、他の誰でもない、彼自身だった。
貝殻を握りしめたまま眠りに落ちたルカシュの寝顔を見ながら、私は、これから先も続くであろう、この不器用で、けれど確かな幸福について、そっと思いを馳せていた。
(次は、どこに行きましょうか)
まだ視察は、あと二箇所残っている。
けれど今は、それすらも、悪くない旅程に思えた。
最後までお読み頂きありがとうございました。
イリナとルカシュの新婚旅行いかがでしたでしょうか?
セルゲイの計らいにより視察メインとなってしまいましたが、二人らしい門出になってと思っています。
結婚式から、新婚旅行へ彼らを連れて行くことが出来て楽しかったです。
それでは、いずれまた、どこかでお会いできましたら幸いです。




