(1)怒りの覚醒
ヒューバートとオリバーは、約束通りお昼の時間に馬に乗ってやってきた。今日は風のない穏やかな日で、森の小道を行くのも心地いい。
だが、道の先に小屋が見えた時、オリバーは眉根を寄せた。
「おい、なんだか様子がおかしくないか?」
小屋の前に焚き火の炎は見えないし、そこで待っているはずのエルナとポムの姿もない。
嫌な予感に、ヒューバートの心臓は跳ね上がった。
「急げ!」
二人は馬の速度を上げ、小屋の前にたどり着く。
「エルナ!どこだ、エルナ!?」
馬上から呼ぶが、周囲はシンとしていて、生き物の気配がまるでない。開け放たれたままのドアが、ヒューバートの不安を駆り立てた。
彼は馬から飛び降りて、小屋に飛び込んだ。
「おい!危ないぞ!」
誰かが潜んでいる可能性を考えて、オリバーは腰の剣に手をかけた姿勢でヒューバートを追いかけた。
「なんだこれは?」
床に散らばる、色とりどりのキャンディー。場違いに賑やかなそれを避けて、ヒューバートは寝室に足を踏み入れる。
エルナの姿を狂おしいほどに追い求めるあまり、彼の目には床に転がる小さな毛玉が映らなかったのだ。
「エルナ!!」
狭い部屋を隅々まで探す。先ほど起きたばかりのようなベッドに手を当ててみたが、温もりは感じられなかった。
(何があった!?どこへ行ったのだ?)
呆然と立ち尽くしたヒューバートは、自分の手足が震えているのに気づいた。胸が締め付けられるように苦しく、心臓の鼓動は激しいのに、顔からは血の気が引いていく。
愛しい女性を失うかもしれない恐怖に、彼はすくんでいた。
(しっかりしろ!早くエルナを探さねば)
彼は震えを押さえるように、両手を組み合わせた。何度も深呼吸をして、なんとか気持ちを落ち着かせる。
騎士として、様々な修羅場をくぐり抜けてきた経験が、今の彼を支えてくれている。
だが、自分の命が危うかった過去のどの経験よりも、エルナを失うかもしれないという今が、一番恐ろしい。
(彼女は何者かに連れ去られたに違いない。あの魔力に気づいた者が、他にもいたのだ)
その考えが、彼を追い立てる。
焦燥に駆られて寝室を飛び出すと、オリバーがポムを赤ん坊のように抱いて介抱していた。その傍には、小さな木剣が転がっている。
ヒューバートは顔をゆがめた。
(エルナを守ろうとしたのだな)
毛玉に聞いたら、何か手がかりが分かるかもしれない。言葉は通じないが、この獣は頭は良いのだ。
「おい、毛玉!目を覚ませ、おい!」
オリバーの必死の呼びかけにも、ポムはぐったりしたままだ。身をかがめて見れば、その白い毛並みは所々薄汚れている。
ヒューバートは大きな手を伸ばして、その体をそっと撫でた。
「息はあるのか?」
「ああ、体も温かいんだが……」
見たところ大きな外傷はなさそうだが、内臓がダメージを受けている可能性もある。
「エルナの料理を食べさせたら、元気になるかもしれない」
ヒューバートはかまどに歩み寄って、そこに置いてあった鍋のフタを開ける。そこには、昨夜の残り物らしいスープが入っていた。
彼はそれを椀にすくうと、オリバーの前に跪いた。その腕のなかのポムに語りかける。
「おい毛玉、エルナのご飯だぞ」
木製のスプーンでスープをすくうと、そのハート形の鼻先へと近づけた。
瞼がヒクヒクと動いたが、目を覚ます様子はない。だが、口が小さく開かれた。
(こいつ、気絶したまま食うのか?)
ヒューバートは半信半疑ながら、その口にほんの少しスープを流し込む。それを繰り返すと、やがてポムは円らな黒い瞳を開いた。
「おお、毛玉!気がついたか!」
「きゅ……きゅぅうう」
オリバーの喜びの声に、ポムは弱々しく答える。ヒューバートが続けてスープを食べさせると、やがて「キュウ!」と鳴いて、元気に床に飛び降りた。
後ろ足で立ち上がると、身振りで何かを訴え始める。
「キュ!キュ、キュウ、キュキュキュウウ!!」
「……何を言ってるか、さっぱり分からんな」
オリバーは首をひねる。だが、その必死さを見れば、エルナに危険が迫っているのは明白だ。
ヒューバートはポムの前にしゃがみこんだ。その黒い瞳を、真っ直ぐに見つめて語りかけた。
「毛玉、エルナは誰かに連れていかれたんだな?」
「キュウ!」
ポムは強く首を縦に振った。
「そいつはお前が知っているやつか?」
「キュウウ」
今度は残念そうに横に振る。
だが、すぐに顔を上げて、キッチンの作業台へとぴょんと飛び乗った。
「キュ!キュウ!」
鳴きながら、棚の方を示す。
「なんだ、そこに何があるんだ?」
オリバーが棚の前に近づく。そこには様々なスパイスの瓶や保存容器が置かれていた。
「この中に必要な物があるのか?」
「キュ!」
「これか?……違うのか。じゃあ、これか?」
彼が容器を指し示すと、ポムが「それじゃない」と首を振る。オリバーは根気よくそれを繰り返した。まどろっこしいが、言葉が通じないのだから仕方ない。
「キュウ!」
何度目かに、ポムはようやくうなずいた。開けてみると、そこにはクッキーが入っていた。
ヒューバートがクッキーをつまんで差し出す。
「これを食いたいのか?」
「きゅうう」
ポムは首を横に振って彼を指し、口を開けて食べる仕草をした。
「私が食べるのか?」
「キュウ!」
ヒューバートは躊躇することなく、それを口に放り込んだ。クッキーからはエルナの魔力が感じられたからだ。
「か、辛っ!?」
だが、その凄まじい辛さに、すぐに吐き出しそうになった。
「キュー!」
その首にポムが飛びついて、もふもふの小さな手でその口をふさぐ。
(コイツ!何のつもりだ?)
ヒューバートは涙目でポムをにらむ。
だが、毛玉の必死な様子を見て、これには何か理由があるのだと気づいた。きっと、自分がまだ知らないエルナの力があるのだ。
(ううっ!それにしても辛い!)
口の中で火薬玉が弾けるような刺激に耐えながら、彼はそれを咀嚼し、無理やり飲み込んだ。熱い火の玉が、喉から胃へと落ちていくのを感じる。
「ゲホゲホゲホ!」
ヒューバートはたまらず、水瓶に手を突っ込んで水をすくい取り、がぶがぶと飲んだ。
胃に落ちた火の玉が、すさまじい熱量となって爆発的に広がっていく。その熱は圧倒的な活力となり、全身の細胞を叩き起こすような勢いで駆け巡った。
(な、なんだ?この感覚は?)
筋力、神経、五感。体の全ての能力が研ぎ澄まされ、魔力が腹の底からふつふつと湧いてくる。
今ならどんな魔獣でも、素手でやっつけられそうだ。
そして、彼は感じることができた。愛しい人の、清らかで純粋な魔力を。
(微かだが、感じる。これならエルナを追うことができる!)
「ヒューバート、大丈夫か!?」
心配するオリバーに、彼は振り向いて言った。
「お前もそれを食え!すぐにだ……エルナをさらった奴に、地獄を見せてやるぞ」




