(19)別離
エルナは目の前に跪く騎士の顔を見た。歳は自分とさほど変わらないだろう、クセのある赤毛に縁どられた顔には、ポツポツとそばかすが浮いていた。
(夫って……この人は確か、平民よね……?)
この国の法律では、貴族と平民は結婚できない。貴族が平民と結婚するには、その身分を捨てて自分も平民にならなければいけないのだ。
(お父さまは、いったいどういうつもりなの?)
たとえエルナがどれほど気に入らないとしても、気位の高い父が、自分の娘を平民に嫁がせるだろうか?
よほどの利益が見込まれない限り、そんなことはあり得ないのだ。
「エルナ、裏の畑のトマトは、たいそう大きくて見事じゃないか?」
「え?」
ニヤニヤとこちらを見ていたアーサーが、いきなり違うことを言い出したので、彼女は余計に混乱した。
「あれはお前の力なんだろう?」
「いえ、お父さま……」
言いかけて口をつぐむ。
ポムの事をこのアーサーに知られるわけには、絶対にいかない。父があれを自分の力だと思っているなら、今はそう思わせておいた方がいい。
「隠すことないんだぞ。なんでも、癒しの魔力があるそうじゃないか?」
(ど、どうして知っているの!?)
父の言葉に、エルナは驚いてよろめく。そんな娘を見て、アーサーはまた愉快そうに笑い声を上げた。
「お嬢様は本当に素晴らしいです!」
跪いたままの騎士が、エルナを称賛するような眼差しで見つめていた。それに気づいた彼女は、ようやく合点がいく。
時々、周囲に何者かの気配を感じていたのではなかったか?足音を聞いたような気がした時もあった。あれは全部、彼だったのだ。
(きっと魔力を使うところを見られていたんだわ)
自分のうかつさを後悔するが、もう遅い。
そして、気づく。アーサーが平民の騎士と自分を結婚させる理由に。
「お父さまは、私を使用人としてお使いになりたいのですね」
父は自分を平民の身分に落とし、本物の使用人として、一生屋敷でこき使うつもりなのだ。特異な魔力を利用して、金儲けしようとも考えているのだろう。
ケビンはそのための道具であり、檻だ。
エルナは父親の姿をあらためてよく見た。自分が屋敷にいた時よりもずいぶん太っていたし、顔色もくすんでいる。
(かなり不摂生していたのね)
彼はエルナを呼び戻して、元のように食事を作らせたいのだ。この先、一生。
「そうだ!よく分かってるじゃないか、ぐははは!」
下品な笑い声を立てる父親を、エルナは妙に落ち着いた気分で眺めた。
(この人は、私にひとかけらの愛情も持っていないんだわ)
子供の頃からずっと、父の態度に疑問を感じていた。今は、その胸のつかえが下りたような心持ちだ。
(こんな父親も、その家族も、私には他人と同じ。いや、他人以下ね)
「お嬢様!俺と一緒にブルック伯爵家に尽くしましょう!!」
アーサーに何を言いくるめられたのだろうか。ケビンはいきなり立ち上がると、キラキラした瞳をエルナに向け、その手を取ろうとした。
エルナはその手を振り払う。
「やめて!私はあなたと結婚しないわ!」
こんな人たちのために、一生奴隷のように働かされるのは嫌だ。
「いけません、あなたは俺の妻になるんです」
だが、振りほどいたその手は、ケビンに簡単に掴まれてしまう。そんな彼を、アーサーは焚きつけた。
「いいぞ、ケビン!私が教えた通り、自分の妻をちゃんと躾けるんだ」
「はい、旦那様!」
「嫌よ!!放して!!!」
エルナは身をよじって、ケビンの腕から逃れようとした。彼は嫌がるエルナの細い腰に強引に手を回し、その身体を抱え込む。
ねっとりと密着する男の体温と、所有欲に満ちた生々しい感触に、エルナの全身が激しい嫌悪でゾッと粟立つ。
「嫌!」
彼から少しでも離れようと、彼女が全身全霊で叫んだ、その瞬間。
「キュー!!」
鳴き声とともに、玩具の剣を手にしたポムが、寝室から飛び出してきた。エルナを拘束している騎士に、勇ましく飛びかかる。
「あっ!?ダメよ、ポム!」
……ダン!
エルナの悲痛な叫びもむなしく、ポムは騎士に蹴り飛ばされ、壁に激突してくにゃりと床に落ちた。
「ポム、ポム!大丈夫!?」
呼びかけるが、床に横たわったポムはピクリとも動かない。
「なんだこれは、汚らわしい!」
床に伏したまま動かないポムを、アーサーはさらに足蹴にした。小さな体は何の抵抗もなく転がって、白い腹を見せて仰向けになる。
「やめて、お願いだから!」
エルナの頬を、大粒の涙が流れ落ちていく。そんな彼女をせせら笑いながら、アーサーは冷酷に言った。
「ぎゃあぎゃあとうるさい娘だ。おい、黙らせろ!」
「はっ!」
エルナの鼻と口が、湿った布で塞がれる。ツンと鼻を刺激する臭いがして、彼女の意識は真っ暗な闇の底に引きずりこまれていった。
「さあ、これをやるから、2、3日屋敷には帰ってくるな。その間に婚姻の手続きは終わらせておく」
アーサーは懐から銅貨の入った巾着を取り出し、エルナを担ぎ上げたケビンに投げた。
「旦那様、ありがとうございます!」
「うむ、しっかりやれよ」
嬉しそうに頭を下げる彼に、アーサーは下卑た笑みを浮かべてうなずいた。
ケビンは小屋を後にすると、獲得した獲物を運ぶように、エルナを馬上に担ぎ上げて去っていった。
その姿を見送ったアーサーは、重い体をゆすりながら自分の馬にまたがる。屋敷に向かってゆっくりと馬を進めるその顔には、満足の笑みが浮かんでいた。
(これであの娘も、大人しく私の言うことを聞くだろう)
これからは病気知らずで好きなものを食べられるだけでなく、金にもなるのだ。あの癒しの力と作物を大きく育てる力があれば、いくらでも金儲けができるではないか。
エルナの力については、調べても結局は分からなかったが、彼はもう気にしていなかった。あの立派なトマトが、エルナの力が本物だと証明してくれているのだ。
(婚姻の手続きを早く進めなければ)
貴族の籍を抜くには、それなりに複雑な手続きがいる。そこに至る経緯の説明や本人への確認などがあって、簡単ではないのだ。
だが、彼には役人にツテがあった。少し金を握らせれば、細かなことには目をつぶって、早急に手続きを進めてくれる。
この手の不正は初めてではないので、要領は分かっているのだ。
(爵位や伝統がなんだ!結局、生き残るのは、私のように賢い人間だ!)
「ぐはははは!」
アーサーの高笑いが森の中に響き渡る。近くの木立から、小鳥たちが驚いたように飛び去っていった。
誰もいなくなった小屋は、ひっそりと静まり返っていた。
開けっ放しの戸口から、晩秋の柔らかな日差しが入り込む。
その床には、砕けて散らばった菓子と、小さな玩具の剣と、動かなくなった小さな白い毛玉が残されていた。




