(5)ただひたすらに甘い
夕日が照らす森に、とろとろと甘い空気が漂っている。その甘いことと言ったら、まるでチョコレートクリームを溶かしこんだよう。
その甘さに耐えかねて、オリバーは口を開いた。
「あー、いいところを邪魔して悪いが、そろそろ帰らないと日が暮れてしまうぞ」
振り返ったヒューバートが氷のような目でにらんでくるが、オリバーも負けずに肩を怒らせる。
馬は夜でも走れるが、できれば明るいうちに帰りたい。それでなくとも、今日はヒューバートのせいでクタクタなのだ。
主に精神的に。
「そ、そうですよね。私、マントを持ってきます!」
エルナはポムを抱えたまま小屋へと駆け込み、ヒューバートのマントとサンニーの包みを二つ持ってきた。
「これ、ありがとうございました……とても暖かかったです」
「そうか!役に立ててよかった」
恥じらうように微笑んだエルナは、ヒューバートにマントを差し出した。
だが、彼はそれを受け取らずに背中を向けてしまう。催促するように首を回して、エルナに笑いかけた。
後方では、オリバーが天をあおぐ。そして、これ以上見せつけられるのは耐えられないというように、クルリと後ろを向いてしまった。
(……あ!)
貴族の場合、普通は従僕などが上着を着るのを手伝うものだ。
エルナはサンニーの包みとポムを近くの切り株に置いた。気の利かない自分を恥ずかしく思いながら、マントを広げて、彼に一歩近づく。
たくましい背中に心臓はドキドキと高鳴り、緊張で手が震えた。
(エルナ、しっかりしなさい!)
エルナが背伸びをすると、ヒューバートが気づいて腰をかがめてくれる。間近に迫った体温とコロンの香りに眩暈を覚えつつ、広くたくましいその肩にマントを羽織らせた。
「ありがとう!」
ホッと息をつくエルナに笑いかけ、ヒューバートは自分で前を整える。その手が、ふと止まった。
「ボタンをつけなおしてくれたのか?」
確か、胸に並んだ飾りボタンの一つが、取れかかっていたはずだ。着用するのに問題はないから、放っておいたのだが。
「はい、失くしてしまうといけないと思ったので」
よく見ればあちらこちらに付いていた砂や埃も、綺麗になっている。エルナがブラシをかけてくれたのだろう。
「手入れをしてくれたのだな、ありがとう!」
その丁寧な仕事ぶりに感激して、ヒューバートは礼を言った。
「いえ、お借りしたのですもの、当然です」
謙遜するエルナを前に、ヒューバートの瞳が再び熱を帯び始めた。
その胸には、一生懸命にブラシをかけたり、マントを膝にのせて針を動かしているエルナの姿が浮かんでいる。想像のなかの彼女は、聖女のように清らかで美しい。
「あの、せっかくなのでお弁当を作ったのですが」
再び甘々な空気が漂い始めたので、エルナは慌ててサンニーに包んだ弁当を二つ差し出した。こう毎回ドキドキさせられては、心臓がもたない。
切り株に座っていたポムが、不服そうに「キュウ」と鳴く。もしかしたら、自分が食べるつもりでいたのかもしれない。
「それは嬉しいな!中身はなんだ?」
「弁当」と聞いて、ヒューバートの笑顔が輝いた。修行僧のような表情で空を見ていたオリバーも、「おっ!」という顔で振り向く。
「パイを作ってみました。四角いのがミートパイで、三角のはサーモンとクリームチーズ入りです」
「美味そうだな!」
嬉々として包みを受け取るヒューバートの笑顔が眩しすぎて、エルナはドギマギと視線を泳がせた。自分を落ち着かせるために、話し続ける。
「オーブンがないのでフライパンで焼いたのですが、味は大丈夫だと思いま……!」
突然、ヒューバートが屈みこんだかと思うと、彼女の手をとって口づけを落とした。
自分の指先をしっかりと捉えた大きな手。ほんの一瞬触れた、熱く柔らかな唇。
その感触に、エルナは全身が硬直してしまった。
(え?ええ?)
息をするのも忘れて、エルナは立ち尽くす。心臓が激しく鼓動をきざみ、そこから流れ出た熱い血が、全身を駆け巡った。
「嬉しいよ、ありがとう」
呆然と見上げれば、艶めいた光を放つ瞳がこちらを見つめていた。まるで、そこに映るエルナの姿を、永遠に閉じ込めてしまいたいと思っているように。
その貪欲な情熱に、エルナは圧倒される。
「……息をしたほうがいいぞ」
ヒューバートの瞳が、フッと細められた。
エルナは自分が息を止めていたことに気づいて、「はあ」と肩で大きく息をつく。それでもまだ、心臓の忙しげな鼓動は止まらない。
「明日は昼過ぎに来よう。昼食には少し遅いかもしれないが、待っていてくれるか?」
「は、はい!お待ちしています、アルスター様」
明日は一緒に食事をしたいという意味なのだろう。そう捉えて、エルナはうなずく。
だが、ヒューバートは少し困ったような顔になった。
「私のことは、ヒューバートと呼んでくれ」
そして手を伸ばし、エルナの真っ赤な頬を、人差し指でちょんとつついた。
(ひゃあ!)
彼女はぴくんと震える。からかわれたのだと思って、その顔はますます赤く染まった。
落ち着いて考えれば、騎士が淑女の手を取るのは、挨拶や敬意を表す儀礼的なものなのだ。そんなものに、呼吸を忘れるほど動揺する淑女はいない。
「キュウウ!!」
エルナの反応をどう思ったのか、ポムが抗議のような声をあげた。拾った小枝をヒューバートに向け、「退治してやる!」とばかりに突き付けている。
「ポム、ダメよ!」
「勇ましいな!」
ヒューバートは笑ってポムを抱き上げると、「高い高い」をするように持ち上げた。
ポムはキュウキュウ言いながら枝を振り回すが、その攻撃は彼に何のダメージも与えられなかった。
「戦いはまた明日にしよう!今日はもう、残念だが……帰らないとならない」
その辺の石ころを蹴り始めたオリバーにチラと目をやると、ヒューバートはエルナにポムを返した。
「では、また明日」
「はい」
「エルナちゃん、またな!」
半ばオリバーに引きずられるようにしてエルナから離れ、ヒューバートはようやく馬にまたがった。
昨日と同じように、見送るエルナを何度も振り返りながら、薄暗くなり始めた道を王都へと帰っていった。
「ええい、もう!首が後ろ向きになる呪いをかけてやる!」
後ばかり気にする相棒に、オリバーは悪態をついた。
だが、愛しい姿を目に焼き付けようとする彼の耳には、そんな呪いの言葉は届かない。




