(3)最後の思い出
エルナは自室になっている狭い屋根裏部屋に戻り、小さなリュックにわずかばかりの私物をまとめ始めた。
扉のない粗末なクローゼットの引き出しから、着替えを取り出す。今着ている服以外には、ワンピースが一枚と下着が数枚だけだ。
同じ引き出しから、三つの小瓶も一緒に取り出した。エルナの母が開発した、三種類の「秘伝のスパイス」の瓶だ。
(お母さま、どうか私をお守りください)
エルナは祈りながら、そのひとつひとつを丁寧にハンカチで包むと、着替えと一緒にリュックにしまった。
そして、部屋の隅に置かれた粗末な木の机に歩み寄り、引き出しの奥から一冊のノートを取り出す。
母が遺したレシピノートだ。そこには秘伝のスパイスの作り方が、母の手書きで記されている。
そのページをめくり、なかに隠してあった土地の権利書を確認した。ブルック伯爵家が代々受け継いできた森が、エルナのものだと証明する大事な書類だ。
最後に、ベッド下に隠してあったナイフセットの箱を入れ、リュックを閉じた。
これらはどうにか奪われずにエルナの元に残った母の形見であり、今の彼女の全財産だ。
用意が整うと、彼女は小さい窓が一つあるだけの質素な屋根裏部屋を眺めた。
(大丈夫、しばらくすれば戻って来いって言われるに決まっている)
キッチンの下働きはいるが、ちゃんとした料理人は雇っていない。エルナがいなかったらまともな食事を作れる人がいないのだ。
アガサたちの気が済んだら、食事作りのために呼び戻されるだろう。
(それまでは、あの小屋でなんとか生活しないと)
エルナはため息をつきながらリュックを手に取る。そこへ、ドタバタと乱暴に階段をのぼってくる足音がした。
(きっとあのメイド頭ね)
普段からエルナをこき使うメイド頭は、ジャネットのお気に入りだ。きっと義母に命令されてきたに違いない。
「ちょっとアンタ!ぐずぐずしないで、さっさと出て行ってちょうだい。でないと私が奥様に叱られちまう」
背の高い痩せぎすのメイド頭は、乱暴にエルナの腕をつかんだ。エルナは慌ててリュックを胸に抱える。
「やめて。そんなことしなくても、いま出ていくから」
だが、彼女はそんな懇願に耳を貸しはしない。エルナはひきずられるようにして階段を下り、使用人の通用口から外へと引っ張っていかれた。
「おい、そんなに乱暴にすることはないだろう!」
裏庭に出ると、若い男の声がした。あまりの乱暴な扱いに、裏門に立っていた若い騎士が、メイド頭をとがめたのだ。
(ああ、またこの人だわ)
エルナは赤い髪の騎士をチラと見て思った。
彼はこの屋敷で唯一、エルナを乱雑に扱わない人間だ。人のいないところで、何度か優しい声をかけられた記憶がある。
だが、気の強いメイド頭は、若い騎士などに怯みはしない。
「うるさいわね!これが奥さまのお望みなのよ!」
言い返されて、赤毛の騎士は黙ってしまった。彼だって、雇い主ににらまれれば職を失うのだ。
エルナは申し訳ない気持ちになって、苦々しげな表情の彼から顔をそらした。
「ふん!」
鼻息の荒い彼女に外へと突き飛ばされて、エルナは道に転がる。背後でガシャンと門を閉める音が響いた。
(ひどい、何も突き飛ばさなくたって)
立ち上がって服についた砂を払っていると、自分がまだ使用人用のエプロンをつけたままなのに気がついた。追い出すにしたって、こんなに大急ぎで放り出す必要があるのだろうか?
罪人のような扱いに悲しくなる。
しかし、何かがポツンと手の甲にふれて、エルナはハッと我に返った。雨粒である。
見上げると、夕暮れの空は真っ黒な雲で覆われていた。
(ぼんやりしている場合じゃないわ、急がないとびしょ濡れになっちゃう!)
森の番人小屋までは、歩いて30分以上かかる。彼女はリュックをかばうように胸に抱え、雨の降りはじめた中を走った。
こんなふうにいきなり家を追い出されたうえ、雨まで降ってくるなんて。
(なんて運がないのかしら!)
走りながら我が身の不幸を嘆く。しかしそれは今に始まったことではなかった。三年前のあの日から、不幸はずっと続いているのである。
三年前。
エルナが14歳になったばかりのあの日、母は親しい友人の茶会に出かけた。それはいつもの、何気ない日常の一幕だった。
「いってらっしゃいませ、お母さま」
「夕方には帰りますから、いい子にして待っていてね」
玄関で見送るエルナに、母はいつも通り穏やかに答えた。
美しく結い上げられたハニーブロンドの髪には、瞳と同じエメラルドの髪飾りが輝いている。宝石の大きさはひかえめだが、よく見れば細工がみごとな逸品だ。
「もう、お母さまったら。私はもう小さな子供じゃありません」
もう14歳なのだ。「いい子」という言葉に少し反発を覚えながらそう答えれば、母はなぜか嬉しそうな笑い声をあげた。
「ではエルナ、我が家の留守をよろしく頼みます」
父のアーサーはほとんど家にいない。母が出かけてしまえば、一人娘の自分が使用人たちの主だ。
「はい、お母さま!」
胸を張って答えるエルナに満足げな笑みを残し、母親は従僕の手を借りて馬車に乗り込んだ。ステップをあがるその細い背中に、エルナはふと思う。
(お母さまって、なんだか妖精みたい)
その背中に蝶のような羽を生やし、どこかに飛んでいってしまいそうだ。
思えばそれが、虫の知らせだったのかもしれない。
「お帰りが遅うございますね」
日が落ちても戻らない母を屋敷中が心配し始めたころ、とんでもない知らせが届く。
母の乗った馬車が、事故にあったのだ。頭を強く打って、病院に運び込まれたという。
執事からの知らせで病院へ行った父は、真夜中過ぎに帰宅した。
「お父さま、お母さまのご容体は……!」
寝ずに待っていたエルナは、父の後から運ばれてくる、重そうな木の棺を目にした。
「ウソ……ウソよ!お母さま!お母さまぁ!!!」
優しかった母は、もうこの世にはいない。過酷な現実に、彼女は打ちのめされた。
棺にすがって泣く娘に優しい言葉をかけるでもなく、アーサーは早々に自室に引き上げた。翌日以降も、ただ淡々と葬儀の準備を進めるだけで、悲しむ娘には目もくれない。
エルナに寄り添ってくれたのは、普段から側にいてくれた使用人たちだけであった。




