終章 その後のおはなし その2
その日は夏の終わりのとても穏やかな一日だったという。
ルウはいつもよりうんと早く起きるつもりが寝過ごしてしまった。目覚めた瞬間、ルウはベッドから飛び起きて、叩くように窓を開けた。
「ちょっとブッカ! いつまで寝てるのよ。おかげでこっちまで寝坊しちゃったじゃない!」
「なんだよ〜むにゃむにゃ、ぼくは船長なんだぞ〜、むにゃむにゃ、もっとやさしく起こせって言ったじゃないか〜」
ルウは寝ぼけブッカをたたき起こして、慌てて支度を済ます。
「おはよう、おばば様」
「なんだい、騒々しいねえ。朝くらいゆっくり出来ないのかい」
「だって、だって、お寝坊しちゃったんですもの。こんな素敵な日に!」
「ふん、大方わくわくし過ぎて夜眠れなかったんだろうさ」
「そうだそうだ! 寝坊したのはぼくのせいじゃないぞ。ぼくは無実だ!」
「わかったわよ! お寝坊は私のせいですよ〜だ。あーんもう、ブッカったら朝ご飯なんて食べてる暇はないわ。さあ、早く行きましょう」
「ええ、ぼくはゆっくり食べたいのに〜。わかったわかった、ちょっとまってくれよ」
「これこれ、そんな急ぐもんじゃないよ。気をつけて行っといで」
「うん、おばば様も後から来てね。絶対よ。絶対に絶対よ!」
ばん、と扉を開けたルウの目の前に、トウリのびっくり顔があった。
「わあ、びっくり! おはようございます、トウリ先生」
「おお、ルウ今日も元気だね。もうお出かけかい? 船に乗るのは午後からじゃないのかね」
トウリはびっくりしてずり落ちた丸眼鏡をあたふた直しながら言った。
「ええ、そうよ。でもとても午後まで待ってられないんですもの。ほら、ブッカ行くわよ。じゃあ先生、いってきまーす!」
ルウはぴっと立っておどけたように敬礼をする。ふふふといたずらっぽく笑ってそのままくるりと走っていってしまった。ブッカは両手にパンを持ってルウの後を追う。トウリとすれ違いざまにやれやれと両手を挙げて肩を竦めた。
ルウの勢いに気圧され扉の前に立ち尽くすトウリに、ため息混じりのアビコが声を掛ける。
「いつまでぼうっとしてるんだい。さっさと扉を閉めておくれ」
アビコのいつもの無愛想な声にトウリがあわてて振り返る。
「い、いや申し訳ない。ルウの様子を見に来たのですが、まるでつむじ風のように行ってしまいました。いやはや……」
トウリはばつの悪い顔で頭を掻いていた。アビコは無言で湯を沸かしていたが、ちらと振り返り、
「ごちゃごちゃ言ってないでコーヒーの一杯でも飲んでおいき」
魔女の思わぬ言葉に呆気にとられるトウリ。
「なんだい、嫌ならさっさとおかえり」
「いや、いやいやいやいやとんでもない! ぜひともご馳走になります」
ほいよと出された魔女特製コーヒーは、ほろ苦くもなんだか懐かしい味がした。アビコは何も言わず窓の外を眺めている。トウリはその横顔を見ながら話しかける。
「ルウは行ってしまいましたな」
「ふん、浮かれ過ぎだね。あれは」
「余程嬉しいのでしょう。なんせルウの白鳥号への思い入れは、人一倍強いですから」
アビコは無言でコーヒーを啜る。トウリは構わず話を続ける。
「そうそう、あの時の昔話には続きがありましてな。私はその後西の都で学問に出会い、学者を志して央都の大学へ入りました。そこであのパレードで見た白銀の髪の魔女の噂を聞いたのです。私の見たあの美しい魔女は《白鳥の魔女》と呼ばれた宮廷魔女だったのです。しかしその時にはすでに宮廷から去っていました。理由は誰にもわかりません。その《白鳥の魔女》はすべての栄光を捨て去り、名を捨て、何処かへと消えてしまった。たったひとつ、王より下賜された一隻の船とともに」
トウリはそこまで話すとふうと息をつき、コーヒーを口にした。アビコは相変わらず無言で窓の向こうを見ていた。
「それにしてもブッカが船長になるとは世の中わかりませんな。しかし……あなたはそれでよろしいのですか?」
トウリはアビコの横顔をじっと見つめた。アビコはその視線に気づきながらも目を合わせることはなかった。
「ふん、よろしいもなにも私には関係ないね。捨てられた船を拾ったのはあの子達さ。好きにするがいいさ」
そう話すアビコの横顔は窓の向こうではなく、どこか遠くの懐かしい日々を見ているような表情だった。トウリはもう何も言わなかった。ただ静かな時間だけが過ぎてゆく。
すべてを捨てた魔女が、この北の果ての地で得たものは何であろうか。それはきっとかけがえのないものであったに違いない。
そしてそのかけがえのない者達は今も走り続けていた。




