第十二章 雨 その4
「雨……」
空を見上げていたルウは、天空から落ちてくる一粒の丸い玉をぼんやりと見つめていた。その丸い玉が水滴で、その水滴が目の前でぴちゃんとはじけた時、ルウはようやくそれが雨粒なんだと理解できた。
そしてその言葉を残して、意識は闇に落ちていった。遠くでソビィの声が聞こえたような気がしたが気のせいかもしれない。そのうち音も光も何もない世界にひとり、到達した。そこは浮いているのか寝ているのか目を開けているのか閉じているのか何もわからない世界だった。
(私魔法を使ったのかな。でもちゃんと沼の水さんは飛んでくれたわ。ガグリたちはどうなったかな。うん、きっと無事よね。トウリ先生は無事かしら。うんうん、おばば様がきっと助けてくれてるわ。そういえばブッカはどうしたんだろう。あの臆病猫ったらひとりで大丈夫かしら。それよりウルスは今どこにいるのかしら。ちゃんと目的を果たせたのかな。それにしても別れってあんなに辛いなんて思わなかったなぁ。でも旅立ちってなんだか素敵だったわ。私もいつかあんなふうに旅立つ時がくるのかしら。ふふ、その時おばば様はなんておっしゃるかしら。でもその前にもっと色々覚えることがいっぱいあるわ。先生にお借りした本も読まなくっちゃ。そういえばソビィの辞書も借りっぱなしだったわ。そうだ、あの辞書さんのおかげで私は魔法を使えるようになったのよね。初めての魔法がウルスの名前を付けることだなんて、今考えても本当に素敵なことだわ。そういえば、おばば様はどうして私に名付け親になれなんて言ったのかしら。ひょっとして私が魔法を使うってわかってたのかしら。そうだとしたら魔女ってすごいのね。なんでもお見通しなんだわ。きっと私にきっかけをくれたのよね……きっとそういうことだったんだわ。うふふ、でもおばば様って本当に魔女だったのよね。空飛ぶ魔法なんて私にもいつか出来るのかな。ううん、私には出来ないわ。なんだかもう空っぽなんだもの。きっと私の全部の魔法を空に飛ばしてしまったんだわ。でもそれでいいの。それでいいのよ。それが私に出来ることだったんだもの。私にしか出来ないたったひとつのことだったのよ……)
とりとめのない思考ばかりが浮かんでは消えていく。しかしこの闇深き世界ではルウに出来ることなど他にはない。ただ目を瞑って沸き上がる思いを順に並べるだけだ。いや目は開けているのかも知れない。それすらもわからない。自分が山のように大きくすべてを俯瞰しているようでもあり、蟻のように小さくすべてを見上げているようでもある。いったい今は内を向いているのか、それとも外に向いているのだろうか。
闇はすべての感覚を消してしまう。
やがて考えることも億劫になってしまったルウは、ただぼんやりと浮遊していた。
(このまま私は闇に溶けて消えてしまうのかしら)
時々浮かぶ言葉も脳裏を抜けて消えてしまう。次第に意識はうすれ闇と混じり合ってゆく。それは眠るように自然なことだった。
そしてルウは闇となった。
なに……か…………しら……
那由多の時を越え刹那の瞬間を経て、ルウは意識を取り戻す。この何も無い世界に、ルウはかすかな音を感じた。鈴のように小さく、しかしとても懐かしい音だ。
ルウはその音のする方向を探すが、ここはあいにく闇の中だった。すぐに諦めて、ただ耳を澄ます。どこか遠く、遠くで響く音。
なにかしらこの音、とても懐かしいこの音。
その鈴のように小さな音が、またひとつ増え重なりあう。そしてまたひとつ、またひとつ……重なって重なってだんだん大きくなっていくその音は、懐かしいその音は、それはルウの大好きな人たちの声だった。
ああ、聞こえる。おばば様、トウリ先生、ソビィ、それにブッカの声。みんな笑ってる。ああ、なんて素敵なの! とても素敵、とても幸せな気分だわ。
ルウは今、夢から覚めた。
今までの闇の心地よさが嘘のように息苦しくなってくる。
闇が牙を剥く。泥のように絡み付く。
闇に溺れそうになる。
ルウは必死に声のする方向に手を伸ばす。
届け届け届け!
戻りたい、みんなの元へ。ここに、こんなところになんていたくない!
闇は嗤う。闇は誘う。ゆくなゆくなとしがみつく。
いや、いや、離して! 私は戻りたいの!
ルウはもがく。絡み付く甘美なる闇を振りほどくため。
闇は哭く。闇は慟哭す。いかないでいかないでと哭き喚く。
その声を聞いたとき、ルウはじたばたするのをやめた。
ああそうか、あなたは私なのね。からっぽになった私を満たしてくれてたのね。
からっぽの私を守ってくれてたのね。
「一緒に帰りましょう」
ルウは闇を抱きしめる。絡み付いていた闇がほろほろとほどけてゆく。
手を伸ばしたその先に、針の先ほどのかすかな光が見えた。ここはもう闇の世界なんかじゃない。ルウは覚醒する。自分の居るべき世界へ戻るため光を目指す。
あの光の先へ……
* * *
ルウが目を開けた時、相変わらずそこは真っ暗闇だった。しかしそこにはいくつもの光があった。そしてその場所では音も匂いも風も、雨の冷たさも感じられることを知った。
そこは懐かしい夜の世界だった。
「ルウ!」
最初に気づいたのはソビィだった。ルウの目がわずかに開いていたのだ。叫ぶより先に体が動いていた。ルウの元に駆け寄り抱き起こす。
「大丈夫かい? ルウ」
ソビィが心配そうに尋ねると、ゆっくりとルウの視線がソビィに向かった。
「まあ、泣いてるの? ソビィ」
ルウはか細い声で静かに笑った。
「あ、雨だよ、雨! 空が泣いているのさ」
ソビィは照れくさそうに言いながら顔をぐしぐしと拭った。その後ろにはアビコのほっとしたような顔があった。トウリは泣いているのか笑っているのかぐしゃぐしゃな顔だった。そしてブッカはさも当たり前のように得意げにこう言った。
「ほらね、ぼくの言った通りだ。ルウがいつまでも寝ている訳がないじゃないか!」




