第1話 婚約解消、承知いたしました
「婚約を、解消したい」
テオドル様がそう仰ったとき、わたくしは帳場の椅子から立ち上がって、深く礼をいたしました。
「承知いたしました」
顔を上げると、テオドル様は少し驚いた顔をしておいででした。何か言い返されるとでも思っておいでだったのかもしれません。けれど七年のあいだ、わたくしがこの方に言い返したことは一度もございませんでしたし、今日そうする理由も見当たりませんでした。
わたくしは懐から布に包んだものを取り出して、卓の上に置きました。
「では、こちらを」
「……なんだ、これは」
「立替金の控えでございます。七年分、三十七件。金貨千二百四十枚」
布を開くと、証文の束が薄い音を立てました。テオドル様は、それを押し返そうとして、手を止められました。
「期日は来月十日でございます。利息はいただきません」
窓の外では荷馬車が一台、通りを渡っておりました。うちの店は王都の川沿いにございまして、両替の帳場と荷の勘定場が並んでおります。父の代からの店で、わたくしはそこの次女でございます。数を扱うほかに取り柄はございません。
婚約は父が生前に調えたもので、話がまとまったのは、その父が亡くなった年の夏でございます。秋に先代様が亡くなられて、喪が明けるまではと式が延びました。喪が明けると、今度はテオドル様が王都で職を得るまではと延びました。七年というのは、そうやって一年ずつ延びた数でございます。
「ミレーユ」
「はい」
「僕は、その、そういう話をしに来たわけではない」
「存じております。婚約解消のお話でございましょう。承知いたしましたと申し上げました」
テオドル様は口を開いて、閉じられました。それから証文の束のいちばん上の一枚を、指の先で少しだけ引き寄せて、また戻されました。読もうとして、読まずにおやめになったのだと思います。
「返す気がないとは言っていない」
「はい」
「返すつもりだった。ずっとだ」
「はい」
わたくしは頷きました。それは本当のことだと思っております。この方は嘘を仰る方ではございません。ただ、返すつもりのある方と、返す日を決める方とは別でございます。
七年のあいだ、テオドル様は「あとで返す」と仰いました。三十七回でございます。わたくしはそのたびに控えを取りました。日付と、品目と、金額と。返済の期日だけは、書き入れませんでした。
「なぜ今なんだ」
「今でなければ、この控えは行き場を失います」
婚約者同士のあいだの金の貸し借りは、婚約が続いているうちは誰も帳面として見てくださいません。家と家のこと、気持ちのこと、そういう言葉で呼ばれます。けれど婚約が解けてしまえば、それはただの立替でございます。
「わたくしはこれを、気持ちのやり取りにしたくないのでございます」
「……金の話がしたいのか」
「金の話でございます。最初から」
テオドル様は椅子に腰を下ろされました。座る心づもりでいらしたわけではないと思います。膝の力が抜けたのだと思います。
「千二百四十というのは」
「金貨千二百四十枚でございます」
「そんなに、借りていたか」
「三十七件の内訳は、明日、書き出したものをお届けいたします。ご自分でお確かめになれるように、日付の順に並べてございます」
テオドル様はしばらく黙っておいででした。それから、思いついたように仰いました。
「利息は、取らないと言ったな」
「はい。いただきません」
「それは……助かる」
「はい」
助かる、という言葉に、わたくしは頷きました。この方は今、たしかに助かったと思っておいでです。わたくしもそう思っていただいて構わないと思っております。利息を取らないというのは、そういう意味でしかございません。
ただ、利息を取らないということは、値引きも致しかねるということでございます。利息の分を削って差し上げる余地が、はじめから無いのでございます。元本というものは、削れません。
そのことを申し上げるのは、今日ではないと思いました。
「期日は来月十日でございます」
わたくしはもう一度そう申し上げて、証文の束を布に包み直し、控えの写しだけを卓に残しました。
「原本はうちでお預かりいたします。写しをお持ちくださいませ」
「……ああ」
テオドル様は写しを受け取って、それを外套の内側にしまわれました。丁寧にしまわれたので、わたくしは少しだけ安堵いたしました。丸めてお持ちになる方もございます。
戸口まで見送りました。表に出ると川の匂いがいたします。九月の十日で、風はもう秋のものでございました。
「ミレーユ」
「はい」
「君は、怒っていないのか」
わたくしは考えました。怒っているかどうかを考えるのは、久しぶりのことでございました。
「怒っておりましたら、利息をいただいております」
テオドル様は何も仰らずに、帰っていかれました。
帳場に戻ると、番頭のヨナスが白湯を置いておりました。五十八になる、父の代からの番頭でございます。わたくしが何をして戻ってきたのか、聞こうともいたしません。
わたくしは椅子に座って、控えの束をもう一度数えました。三十七枚。金貨千二百四十枚。指で数えなくても分かっている数でございますが、数えました。
ヨナスが算盤を右手で一度だけ弾いて、言いました。
「合っております」
「はい」
白湯は、ちょうど飲める温さでございました。
テオドル様は今夜、手文庫をお開けになると思います。ご自分の家に今いくらあるのかを、数えることになります。
あの方が数をお数えになるのを、わたくしは七年、一度も見たことがございません。
「怒っておりましたら、利息をいただいております」——この一行を書きたくて、この話をはじめました。ミレーユは声も荒げませんし、誰も責めません。ただ、利息はいただかないと申し上げるだけでございます。取らないと決めた瞬間に、値引きしていただく余地も消えます。優しさのかたちをした、いちばん逃げ場のない一手でございました。
次回は、その千二百四十枚の中身をぜんぶ開きます。香典返し、叙勲の献納、屋敷の繕い、馬車と旅——七年という時間は、項目に並べてみると、思いのほか顔をしております。第二話「七年、三十七件の控えでございます」。




