表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/33

20話いやいや勝手に初めて勝手に終わった。播磨勢

天文23年(1554年)8月


新御所完成に伴い京の町では、1週間にわたり祭りが行われた。

南蛮から取り寄せた、動物の観賞が出来たり。

(象・虎・駱駝・大熊猫等)


連合各地の特産品のかなり安く試食・試飲販売出来たり。


大道芸を仕込んだ兵によるパフォーマンス


清一の作った色々な自転車(竹製)や人力の小型メリーゴーランド等々完成祝いなので無料で遊べた。


帝よりの計らいとしてである。


京は、信長の上洛以降上京・下京共に再開発され下京には連合各国の直営アンテナショップを作ったり

連合で作った酒を纏めて販売する店+飲み屋を作ったり。

何故か?酒屋の横に言継卿の診療所が出来たり。


町の工事は、賦役として町の住人を雇い日当と

昼食を出すとし募集すると予定よりかなり多い人数が集まった為。


帝に許可を貰った上で、京の防壁の壁を一町(100m) 程四方に拡張する事にした。


厚さ50cmのコンクリート(中は木製の筋が入っている)の上に漆喰を塗り白い壁に見せた。


新にできたスペースを使って貧民街を潰し治安維持の詰所や風呂屋を造り火事対策としての用水路を作ったりした。


京の町は、全体的に新しく作った街のようで有った。


上京の公卿邸も新しくなり、拡張スペースを使って邸が完成したら引っ越して貰い、潰して新に邸を造るを繰返し。

上京の真ん中の筋沿いに具教の大きな邸と筋向かいに、兵の待機&訓練場所を作った。

公卿武将で、京に放り込まれた者は具教の下で働く事になる。


信長達連合大名も其々に邸を建てたが、

岩田家のみ下京に邸を建てた。


1階は店舗として利用して、2階は寝床にした

店舗は、南蛮料理(岩田家女性陣が監修)を出す店として人気をはくした。


9月になり

後奈良天皇が退位し、正親町天皇が即位した。


来年から改元して弘治にすると宣言された。


伊勢神宮の改築も始まり来年半ばには、

式年遷宮も執り行われる事も決まった。


正親町天皇は、これまでの感謝として

連合大名の昇進を伝えた。


信長を、従三位参議とし

清秀に、従四位上左近衛中将

義元に、従四位下治部大夫

氏康に、従四位下民部少輔

長慶に、従四位下修理大夫

広忠に、従四位下左近衛権少将

義昭に、従四位下左京大夫

義信に、従四位下大膳大夫

晴宗に、従五位下陸奥守

政景に、従五位下越後守

義光に、従五位下出羽守

筒井家+北海道以北組に其々従六位上の官位を賜った。


信長達は、丹波・丹後・摂津に兵を送り。

播磨・但馬攻めの準備をしていた。


そこに大内義隆が一人の男を連れてやって来た。


信長と義隆は天文20年のクーデター以来貿易していた。


義隆の突然の訪問に慌てた信長は、急いで畿内にいるの連合大名を集めた。


義隆は、戦に飽きて内政に力を入れていた。

無駄な戦をするつもりの無い義隆は、

早く戦の世を終わらせて、好きな内政がしたかったのである。

その為、連合入りを決めたのである。


一緒に居る男は、毛利元就であった。

元就は、大内に従属していた。

謀作家の備後の大名の様に・・・

元就は、義隆に使者を出し、「連合に参加した方が、早く戦は無くなり内政出来るし、連合の技術がてに入りま。」と口説いた。


義隆も貿易で入ってくる、連合の品の素晴らしさや技術力の高さを考え、その方が良いと判断していた。


そして、二人は長門から船で堺まで行き、京に寄り道をしていた。

義隆達は、京の治安の良さ町の賑わいを見て、日の本の中心にふさわしい街だと評価した。

2~3日京に宿を取って見て回ってから摂津を目指ている。


義隆達は、無駄な戦で兵を損ねるより、

内政で民を富ませた方が早く良き国になる。

と信長達に伝えた。


信長達は、此を了承し大内義隆・毛利元就共に

同盟国大名として迎え入れた。


大内家は、大国の為気を使い。

毛利家は、大内家の連合入りに人力してくれた為とした。(理由も無く同盟国大名として入れると、越前の畠山や北海道組に悪いから)


此れにより、尼子家は西に大内・毛利、南に三好 、播磨・但馬以東は織田と連合に囲まれてしまった。


天文23年12月


播磨勢も尼子に着く者・連合に着く者と分かれ

勝手に争い初めてしまった。

連合側に別所・小寺

尼子側に浦上・赤松


連合は、まだ参加を認めていない。

播磨勢は、播磨を手土産に其々の側で

上に行く為の行動であった。

勢力も浦上・赤松の方が有利に進んでいた


信長達からすれば「おいおい此方の段取り無視で勝手に初めやがたった」と言う心境であった。


取敢えず救援を送ろうとした時

突然浦上内部で謀将宇喜多直家が裏切ったのである。

その為パワーバランスが逆転別所・小寺組の勝利で終わった。


そして勝手に初めて勝手に終わった事を知った、清秀は「俺達何にもやってねー、イヤ泣けたっす、イヤマジ泣けたっす、フリースタイル位にマジ泣けたっす。」と謀スチャダラな人達見たいに謡だしたので有った。


折角福原に城を作ったのに無駄になったと

哀愁漂う勝家がいたり。


山名攻めの準備をしていた義元達は、

えっ同時攻めじゃなかった?

攻めた方が良いの?どっち?

と言った状態だった。


挨拶に来た三人宇喜多直家・小寺政職・別所就治を見た信長達は、顔を引き面せながら二位従属国として受け入れた。

信長達は(こいつら絶対台湾開発に堀こんでやる)

と誓ったと言う。




三人が連合に着いたのも

宇喜多直家は、元々復讐の為浦上を滅ぼす機会を狙っていた為である。


小寺政職は、黒田職隆の説得によるものであり


別所就治は、播磨の守護神と言われ。三好や尼子を退けて来た人物である。

戦って絶対に勝てないと判断したので

無駄な戦で兵を損ねるより、降る事を選んだ。



そんなこんなであった年末も終わり。


弘治元年(1555年)元旦

去年から始まった帝・公卿の挨拶のデスマーチのスタートであった。


今年も自国に戻ったのは、2月になってからであった。


3月になってから

但馬攻めのを始めたが僅5日で終わってしまった。

尼子の救援が間に合う時間も稼げなかったのである。


砦を攻めれば直ぐに兵が逃げ出し

城を攻めれば開城するしまつであった。

竹田城を攻めた際は山名当主の山名豊定は嫡男

源十郎と元豊を連れて因幡に逃げてしまった。

その為5日だったのである。


清秀達日本海側からの軍は、ついでとばかりに因幡に攻め混み鳥取城を攻め落とした。

流石に鳥取城は、堅固で時間がかかったが

船から大砲を持ってきて城門を吹き飛ばした。

兵は降伏したが、何故か当主豊定は、嫡男・次男を道連れに切腹して果てていた。

清秀は、子供道連れに勝手に死ぬなよ。

死ぬなら一人で死ねよとやるせないおもいであった。

此れにより山名氏は滅んだ。


まだ3月になったばかりの出来事であった。


本州残るは、尼子だけ。

もうすぐ統一です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ