◆3-5
竜の問いかけに男は何も言葉を発しなかった。
ただ口角を僅かに上げ、何の感情も宿っていない視線を竜へと向けたままだ。
竜の方も、ピタリと視線を男に合わせたまま───いや、そんな生易しいものではなかった。
そのまま視線で射殺せるのではないかと思うほど、殺気諸々を込めた物騒なきつい眼差しを向けていた。
二人───いや一人と一頭だろうか。は、視線で十分会話が出来ているのではないのだろうかと思うほど、一切言葉を発しなかった。
それどころか、微塵も動かない。
この状態を言い表すとしたら、一触即発。
その言葉以外ないだろう。
少しでも動いたり喋ったりすると負けの様な……。
勿論そんな単純で生易しく軽いものはないのは、竜の雰囲気から嫌でも分かる。
二人の間には間違いなく、ピンッと張り詰めた糸が張ってあるのだろう。
息をするのも憚れる様な緊張感、緊迫感。
否応なしに私にもその緊張感が圧し掛かる。
部外者である私がこの緊張感を壊すわけにはいかないだろう。
それ以前に壊す勇気もないけれど。
おかげで意識しすぎて、自然に息が出来ない。
思わず、今までどうやって息をしていたのだろう何て考えてしまうほどだ。
どうして私がそんな気を遣わないといけないのか甚だ疑問に思うが、今のこの状況で文句なんか言える筈もなく。
それどころか、そんな事を言ったらすかさず竜に『パクリ』と食べられてしまうのがオチだろう。
それほどまでに竜の纏っている雰囲気が格段に危険レベルなのだ。
動けるものなら動いて、今すぐ速攻此処から立ち去りたい、いやいっそ消えてしまいたいと思うぐらい。
そんな事が出来るはずもないので、銅像や何かの置物のようにただ無言でじっとしているしかないのだ。
そういった状況なので、緊張感は未だに保たれたままの膠着状態。
一体どれ程の時間が過ぎたのだろうかと、頭の片隅で考える。
只管じっとして何もする事のない時間がどれ程無意味で、苦痛なのか分かっているのだろうか。
いや、分かっていたらこの緊張感は続かないだろう。早々に何かしらのアクションが起こり、状況は変わっていた筈だ。
それがどういった事を引き起こすのかは分からないが。
それでも、いい加減どうにかしてくれないだろうかと心底思う。
残念ながら自分から何とかする勇気なんてないので───だって普通の平凡で非力な女性がどうして竜に物申せようか。勿論知らない男の人に話しかけるのは論外。
だって、竜の知り合いだ。見た目通りとは限らないだろう。
出来ればどちらかが、それが無理なら第三者の誰かが何とかしてくれないだろうか。
他力本願、なんて言う事なかれ。
どう考えたってこの状況を打破するには、私には荷が勝ちすぎているのだ。
内心で疲れたため息を吐きつつ、動けー、動けーと意味がないだろうと思いつつも念を二人に送る。
こうでもしていないと、暇を潰せない。
それにあれだ。
石に立つ矢とも言うではないか。
頑張れば、諦めなければ出来ない事はないのだ。うん。
なんて自分を弁解している時点で、すでに限界なのよね。
もう本当に、どっちでもいいからこの状況を何とかして!!
私の何度目か分からない心からの叫び。
それがようやく届いたようだ。
『再度問おう。フィリップ・フラップよ。どうしてお前が此処に居る』
理性でもって自分の感情を押さえ込んでいるのだろう。
頭に直接響く竜の思念───言葉は纏っている雰囲気からは想像できないほど、怒気を孕んでいなかった。
いや、そう思いたかっただけかもしれない。
その言葉の根底にある、理性で押さえきれていない感情が僅かに漏れ出ていたようだ。
それは酷く冷たく背筋がゾクリと、いや本能が危機感を感じてか思わず全身が小刻みに震えだすほどだった。
竜が感情を全て開放した時、その先に待っているのは……。
駄目だ駄目だ。
慌ててその思考を振り落とす。
これ以上、竜の感情に意識を向けていれば間違いなく碌な事にならない。
僅かに漏れ出た感情でさえ、この様な事になっているのだから。
とりあえず意識を何かに向けていないと。
えーと……。
なんて考えたところで、動けやしないのだから自ずと意識を向けるのは決まってくる。
残念な事に───目の前の二人以外にない。
もう少しこの緊張感が緩まれば、こっそりとこの場を離れられるとは思うのだけれど……。
「まさか竜如きの結界を、この俺が越えられないと?」
男は漸く口を開いたのだが、その内容はあまりにも酷かった。
ついでに鼻で哂うというオプション付きだ。
一体なんて事を言うのよ! 空気読んでよ、空気! と、声に出す勇気はないので心の中で男に怒鳴る。
予想通りというか、当たり前だと言うべきか、竜の殺気がぐぐぐんと格段に膨れ上がった。
しかし男は一向に気にした様子はない。
まるでどこ吹く風のようだ。
なんていう図太い神経!!
竜が醸し出している殺伐とした雰囲気を物ともせず、自分を押し通す。
その無謀ともいえる勇気、中々出来る事ではない。
ある意味賞賛に値するだろう。
でも、それは二人だけの時にしてもらいたい。
此処には全く関係ない、第三者───私が居るのだ。
それを念頭において発言なり行動なりをしてほしい。
巻き添えなんて喰らいたくないのだ。
何度も言うようだが、私は極々一般の平凡で非力な女性だ。
そんな私が竜の殺気を肌で感じて、平然と出来る筈なんかない。
自分に向けられているわけでないと分かっていたって、本能は否応なしに警鐘を鳴らす。
鳴らしているなんてかわいらしいものではない。
例えて言うなら壊れたベル。
止まる事を知らないとでもいうように、大きく只管けたたましく鳴り響いている。そんな感じだ。
頭の片隅には『死』という言葉が常駐し、気を抜くとすぐに身体は震え出そうとする。
その震えをなんとか表に出さずに、気力を振り絞って頑張っているというのに……。
私の涙ぐましい努力をふいにするかのような男の言葉に、沸々と怒りが湧いてくる。
だから悪態付かれたって仕方がない。いや、当然だろう。
文句なんて勿論言わせない。
でも男に対する怒りのおかげで、身体の震えは若干収まった。
その点に関しだけは、お礼を言ってあげてもいいかもしれない。
『我等の結界が、貴様にとっては意味のない事ぐらい知っている。
我が尋ねたいのは別の事よ』
あれだけ殺気を放っていたのに、それでも会話をしようと話しかける竜は凄いと思う。
私だったら完全に無視するわね。
気になるけど、それよりも感情が勝って口をきくのも嫌だと思う。
きっと竜は私より遥かに心が広く、精神年齢が大人なのだろう。
「ふうん。プライドは高いと思ったんだけどな。
で? 何を聞きたいわけ?」
どうやら今回は会話になりそうである。
男の言葉に、ホッと胸を撫で下ろした。
良かった良かった。
後はもう少し雰囲気が軽くなったところで、こっそりと此処から離れられれば言う事ないのだけど。
『此処には貴様の興味が惹かれるようなもの等一切ない筈だが、どうして此処に居る』
「まあ確かに。竜の住処になんか興味は全くないけど。
でも、今此処にしかないものがあるだろう?」
『此処にしかないものだと? そんなもの一体……』
考えに集中しだしたのか、竜の言葉はそこで途切れた。
視線は虚空を何所とはなく彷徨っている。その瞳には本当の意味では何も映っていないだろう。
男は相変わらずニヤニヤと、底意地の悪そうな表情で竜を見ていた。
よーし、今がチャンス!
竜は自身の考えに没頭しているし、男は竜を見ているから私は視界に入っていない。
そろーりそろーりと後退して行く。
さすがに行き成り方向転換をしては、気付かれてしまう可能性があるからだ。
そうして地道に距離をある程度稼いだところで何故か、竜と目が合ってしまった。
何故にこのタイミング!?
仕方がないので、竜の視線が外れるまでその場でジッとしている事にした。
視線が外れたらまたこっそりと後退しようと考えて、竜の視線が外れるのを待っていたのだが不思議な事に一向に外れる気配がない。
まさか後退していたのがばれたとか?
でも、ばれた所で竜の怒りを買うとは思えないのだけど……。
ならば何故、食い入るような目で見られているのだろうか。
全く持って見当が付かない。
せめて何か話しかけてくれでもしたらいいのだけど。
そんな無言の見つめ合いを、どれ程の時間していたのだろうか。
正直なところ、時間に気を配る余裕などなかったので短かったのか、それとも長かったのかは分からない。
『まさか……』
思い当たる何かがあったのか、竜が誰ともなしにポツリと呟いた。
視線は相変わらず私に合わせたままで。
その呟きを男が拾った。
「その『まさか』だよ」
男はそこで一旦言葉を切り、視線を竜から私へと移した。
なぜか行き成り二人の視線を真っ向から受ける事になったのだけど、相変わらず理由が分からない。
それなのに嫌な予感しかしないのは何故だろう。
そしてそれと同時に、本能の警鐘もさらに激しくなってきた。
これって本気で生命の危機?
形振りかまわずダッシュで逃げた方がいいのかもしれない。
そうだ、そうしよう!
瞬時に決断すると、勢いよく回れ右をして走り出した。
自分の持てる力を全て振り絞って、ただ只管足を前へ前へと踏み出していく。
こんな事前にもあったような気がしたな、と一瞬意識をそらした瞬間、何かにぶち当たった。
結果、自ずと立ち止まるしかない。
スピードが出ていた筈なのに、弾かれなかった事を不思議に思いつつもそのぶち当たったもの───障害物へと視線を向けた。
思わず数度、瞬きをしてしまった。
ついでに何回か目も擦ってみた。
さらに、瞼の上も指でぐりぐりとほぐしてみた。
それでも見えたものは、全く同じで変わらなかった。
ならばこれは幻ではないのだろう。
そこには───後ろに居たはずの男が立っていたのだ。
そんな馬鹿な……。
走っていたつもりで走っていなかった?
いや、そんな事はない。
現に後ろを振り返ってみれば、竜との距離は空いていた。
ならこの男が私より速いスピードで走って先回りして立ち止まっていた?
いや、それもない。
さっき一瞬意識をそらしただけで、それ以外は前を向いて走っていのだ。
幾ら男のスピードが速くても私の視界の中に入っていただろう。
だったら男はどうやって……?
「あー。一人で考えてるところ悪いんだけど、とりあえずこっちに意識と身体向けてくれる?
折角君に会いに来たんだしさ。ねぇ、聞いてる?」
何か今、聞き捨てならない言葉が。
いや、幻聴、幻聴だうん。
「わー。完全無視? 何そのスキル。でも、俺めげないよ」
そうだ。このまま何事もなかったようにこの場を去ろう、そうしよう。
間違いなくそれが一番いい。
そうして歩き出そうとしたのだが、肩を掴まれて強引に身体の向きを変えさせられた。
ぐりんって音が聞こえそうなほど勢いよく身体を反転させらた先には、男の顔がすぐ目の前にあった。
って、顔!?
滅茶苦茶近いんですけどっ!?
「別に、無視しててもいいけど? それならそれで一日中俺の事しか考えられなくしてあげるし?
それどころか、俺なしでは生きていけないようにしてあげるよ。
あ、なんかそれいいかもしれない! ねぇ、そう思うだろ?」
お互いの息がかかる距離で、愉悦の笑顔で告げられたって同意なんか全く出来ません!
何その危険な思考。
迷惑以外の何者でもない。
そんな思考、まとめて燃えるごみの日にでも出してしまえ!
「反応がないって言う事は、同意って事だよね。
そっかそっか、そんなに俺と一緒に居たいんだ。
やー、なんて言うの? 俺の魅力にメロメロ? 骨抜きにされちゃったって事かな」
「メロメロでもないし、骨抜きになんかされてませんっ!!
っていうか、いい加減に離れて欲しいんですけどっ!!」
あのまま無言を押し通していたら、間違いなく好ましくない方へと行くのは分かっていたので仕方なく返事をした。
ついでに断固拒否の構えをとる。
男は私の拒否の言葉にやれやれと肩を竦めると、一歩後ろへと下がった。
それでも、相変わらず顔には笑顔が張り付いていたが。
「そっか。残念。
まぁ、何にしても俺は君に会いに来たんだよ。
椎名結歌───君にね」