第三話 秘密の場所、小さな温もり
「…私、なんでこっちに歩いてるんだろう」
賑やかなお昼休みの喧騒を抜け、気づけば私はまた、旧校舎へと続く渡り廊下を歩いていた。
あの日以来、頭の片隅にはいつも、あの旧校舎の裏で聞いた黒川くんの柔らかい笑い声が残っている。
今日もそこに彼がいる保証なんてどこにもないのに、「なんとなく」足がそちらを向いてしまう自分に、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「しっかりしなきゃ」と自分を律するいつもの理性は、今の私の足取りを止めてはくれなかった。
旧校舎の古い勝手口を開け、草の匂いが混ざる外の空気を吸い込む。
白杖をそっと地面に当てながら、あの日彼がいた場所へと近づいていく。
すると、微かに衣服が擦れる音が聞こえた。
(本当に、いた……)
胸がトクン、と小さく跳ねる。
驚きと、それ以上の嬉しさが込み上げてくる。
声をかけようと私が口を開きかけた、その時だった。
「――にゃあ」
高くて、ひどく甘えたような、小さな生き物の鳴き声が私の耳に飛び込んできた。
「……っ」
驚いて言葉を飲み込む。
続いて聞こえてきたのは、ゴロゴロと喉を鳴らす音。
そして、衣服が擦れる音のあとに、誰かが優しく、何かを撫でているような衣擦れの音が響く。
「…おい、そこはダメだ。擽ってえよ」
降ってきたのは、いつもの地を這うような低い声。
だけど、そのトーンは驚くほどに甘く、信じられないほど穏やかだ。
まるで壊れやすい宝物を相手にしているかのような、極上の優しさがその短い言葉に詰まっている。
「にゃぁお」
「はいはい、これ食ったらもう終わりだからな。…ったく、お前は俺を怖がらねえのな」
カサカサと、小さな袋を破る音がする。
どうやらキャットフードをあげているらしい。
周囲の生徒全員から死神のように恐れられている黒川くんが、誰もいない旧校舎の裏で、小さな野良猫を相手にこんなにも優しい声を出し、戯れている。
目が見えないからこそ、彼の「声音の柔らかさ」がダイレクトに私の鼓動を早くしていく。
みんなに見せているあの鋭い凶悪な仮面の裏側に、こんなにも温かい素顔が隠されていたなんて。
「……あ」
私がそのギャップの尊さに圧倒されて立ち尽くしていると、白杖の先が小さな石を弾いてしまった。
その微かな音を彼の鋭い聴覚が見逃すはずもなく、顔を上げた音がした。
「……高橋か」
一瞬で、いつものぶっきらぼうなトーンに戻る声。
だけど、衣服が激しく擦れる音がして、彼が慌てて立ち上がったのが分かった。
顔の表情や声色そのものには感情が出ていないはずなのに、その気配には秘密を見られてしまった少年の、明らかな動揺が混ざっていた。
「……あの、黒川くん」
「違うぞ」
私が名前を呼ぶや否や、否定の声が降ってきた。
相変わらず低くて地を這うような、周囲が怯えそうな冷たい声。
表情もおそらく、いつものように目つきが鋭く、険しいままなのだろう。
だけど、いつもより明らかに言葉のテンポが早い。
「別に猫と遊んでたわけじゃない。
こいつが勝手に足元にすり寄ってきて邪魔だったからどかそうとしてただけだし、餌も余ってたから処理に困って適当に投げただけであって、決して可愛いとか思ってないし、お前目が見えないんだから今の鳴き声も幻聴か何かだろ」
「ふふっ……」
息もつかずに一気に言い放たれた言い訳に、私は耐えきれず、思わず吹き出してしまった。
「……何笑ってんだよ」
「すみません。でも、黒川くん、少し早口ですよ」
「……っ」
彼は言葉に詰まったように、バツの悪そうな沈黙を落とした。
みんなが恐れる『黒川朔』が、私の前でだけ、こんなにも子供のように慌てて言い訳を作っている。
その事実が、私の胸をどうしようもなく甘酸っぱく満たしていく。
「にゃあ」
張り詰めた空気を破るように、足元でまた小さな鳴き声がした。
トコトコと小さな足音が近づいてきて、私の靴の先に、柔らかくて温かい何かがふわっと触れる。
「あ……」
「……おい、そいつ、人見知りしないから、お前にも懐いてる」
朔の声が、今度は少し諦めたような、いつもの静かなトーンに戻っていた。
「どこにいますか? 触りたいです」
「…その場にしゃがめ。手を前に出してみろ」
私が白杖を左手に持ち替え、おずおずと右手を前に差し出す。
すると、私の指先に、少し硬くて大きな、だけど驚くほど温かい手のひらが重なった。
黒川くんの手だ。
「っ……!」
「動くな。ここに、こいつの頭がある」
朔は私の手を優しく包み込むと、そのままゆっくりと下へ誘導してくれた。
触れた指先に、細くて柔らかい毛並みと、トクトクと刻まれる小さな命の鼓動が伝わってくる。
「…あ、あったかい」
「…だろ」
私のすぐ近くで、朔が小さく息を吐く音が聞こえた。
周囲を殴るための固い拳。
みんなが怯えて逃げ出す死神の手。
それが、今は壊れ物を扱うみたいに、優しく私の手を引いてくれている。
「しっかりしなきゃ」といつも自分を縛り付けていた鎖が、彼の温もりを通じて、ゆっくりとほどけていく。
お昼休みの終わりを告げる予鈴が遠くで鳴り響くまで、私たちは無言のまま、一つの小さな命の温もりを静かに共有していた。




