第四話 「私」という人間、霧を晴らす声
私がここまで頑なに「しっかり者」であろうとするのには、理由がある。
小学生の時、クラスで一人の女の子がひどいいじめに遭っていた。
私のすぐ近くで、教科書が乱暴に破られる音、それを嘲笑う冷酷な声、そして彼女の押し殺したすすり泣く声が、毎日のように聞こえていた。
『何やってるの? やめなよ!』
そう言って、彼女の前に飛び出したかった。
だけど、当時の私にはそれができなかった。
霧の向こう側のような私の視界では、今、誰がどこにいて、どんな表情で、誰が主犯なのか、周囲の状況が全く掴めなかったのだ。
もし下手に動いて、いじめっ子たちを刺激してしまったら?
もし私が足手まといになって、彼女を余計に傷つけてしまったら?
そうやって傷つくのを怯えているうちに、私はただ、白杖を強く握りしめてその場に立ち尽くすことしかできなかった。
『高橋さんはいいよね。目が見えないから、何も見なくて済んで』
事件のあと、逃げるように転校していった彼女が最後に遺したその言葉は、今も私の鼓動を鋭く突き刺す。
私の障害は、ただ生きているだけで周囲に負担をかけ、いざという時には誰も救えない「お荷物」なのだ。
だからこそ、せめて自分のことだけは完璧にこなさなければならない。
二度と、あの時のように無力な自分を味わいたくなかった。
――けれど、トラウマは忘れた頃に襲いかかる。
ある日の放課後。
提出物を職員室に届けた帰り道、私はあまり生徒が通らない西階段の踊り場で、その「音」を聞いてしまった。
「おい、調子乗ってんじゃねえよ」
「これ、お前のカバンだろ? ほら、拾えよ」
ドサリ、と中身が床にぶちまけられる音。
続いて、数人の男子生徒の卑屈な笑い声と、小さく怯えるような男の子の荒い息遣い。
――いじめだ。
その瞬間、私の頭の中の時間が、あの小学生の教室へと急速に巻き戻された。
心臓がドクン、と嫌な音を立てて激しく跳ね上がる。冷や汗が背中を伝い、呼吸が急に浅くなっていく。
(止めなきゃ。今度こそ、私が声をかけなきゃ……!)
しっかり者の私が、頭の中でそう必死に叫ぶ。
だけど、足が、どうしても動かない。
階段の踊り場という狭い空間。
数人の足音が不規則に響き、誰がどこにいるのか位置関係が全く掴めない。
もし今、私が割って入ったら、階段から突き落とされるかもしれない。
また足手まといになるかもしれない。
「なんだよ、文句あんのか?」
「……っ、す、すみません……」
聞こえてくる恐怖の声。
私の身体はガタガタと震え、白杖を握る指先から血の気が引いていく。
目の前で理不尽が起きているのに、状況が分からない恐怖で、一歩も進めない。
私はあの時と何も変わっていない。
ただの、無力な障害者だ――。
恐怖よりも、「また何もできなかった」という絶望と悔しさで涙がこぼれそうになり、ギュッと目を閉じた、その時。
トントン、と。
背後から、驚くほど静かで、だけど迷いのない足音が近づいてきた。
私の横をすれ違う瞬間、衣服が擦れる独特の音と、聞き覚えのある微かな草の匂いが鼻腔をくすぐる。
「――おい」
低く、地を這うような、圧倒的な低音。
その一言が響いた瞬間、踊り場の荒々しい足音と言い争いが、嘘のようにピタリと止まった。
「さ、朔……!?」
「黒川……なんでここに……っ」
いじめっ子たちの声が、一瞬で恐怖の悲鳴へと変わる。
私の前に、まるで行く手を阻むすべての霧を払いのけるような、巨大で圧倒的な背中が立ちはだかったのが、空気の震えで分かった。
「……消えろ」
朔の低い、冷酷な短い宣告。
それだけで、さっきまで被害者の男の子を囲んでいた足音が、パニックを起こしたようにドタバタと階段を駆け上がって逃げていった。
被害者の生徒も、怯えながら「あ、ありがとうございました……!」と小さく言い残し、這うようにして去っていく。
嵐が去ったような静寂が、西階段の踊り場に戻ってくる。
トラブルは解決した。誰も怪我をしていない。
なのに、私の身体の震えは止まらなかった。
「……高橋?」
異変に気づいた朔の足音が、ゆっくりと近づいてくる。
いつもの気怠そうな歩き方なのに、どこか焦っているのが分かった。
「……また」
私の唇から、掠れた声が零れ落ちる。
自分の姿が情けなくて、惨めで、白杖を握る指先が白くなるほど力を込めた。
「また、何もできなかった……。
音が聞こえるのに、すぐそこにいるのに、私には何も見えないから……状況が分からなくて、足が動かなくて……。
ただ立ってることしか、できなかった…!」
恐怖なんてどうでもよかった。
ただ、あの小学生の時と全く同じように、目の前の理不尽に対して何もできず、足手まといになることを恐れて立ち尽くした自分が、悔しくて、悔しくて仕方がなかった。
「しっかり者」でいようとしたのは、自分の障害を言い訳にせず、誰かを助けられる側になりたかったからなのに。
ポロポロと、大粒の涙が目から溢れて、ローファーのつま先へと落ちていく。
誰の足手まといにもなりたくない。
誰にも迷惑をかけたくない。
そう張り詰めていた私のプライドが、音を立てて崩れていく。
かける言葉が見つからないのだろう。
朔の気配が、私の目の前でピタリと止まる。
沈黙のあと、カサリ、と衣服が擦れる音がした。
そして、私の頭の上に、ぽん、と大きな手のひらが置かれた。
「っ……」
「……お前が気にすることじゃねえ」
降ってきたのは、不器用で、ひどく掠れた低い声。
だけど、その声には、私の溢れそうな悔しさをすべて包み込んでくれるような、圧倒的な優しさがあった。
「お前は、声を出そうとした。俺には分かった。……それだけで十分だろ」
朔の手のひらが、ゆっくりと私の頭を撫でる。
周囲を殴るための固い拳。
あの校舎裏で猫と触れ合った暖かい手。
今は壊れ物を扱うみたいに、優しく私の髪を撫でてくれている。
「何もできなかったなんて、二度と言うな。…お前がそこに立っててくれたから、俺はあいつらに気づけた」
「……黒川くん」
「…朔でいい。…お前が動けない時は、俺が動く。だから、一人で全部背負おうとすんな」
その言葉を聞いた瞬間、私の心の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと音を立てた。
私は白杖を持ったまま、彼の胸元に額を預けるようにして、声をあげて泣いた。
彼は何も言わず、ただ私の頭に手を置いたまま、私の涙が止まるまで、静かにその場に立ち続けてくれた。
私の世界は、いつも暗い霧に包まれている。
この不器用で優しい男の子の胸の中だけは、驚くほど温かくて、私の周りの全ての霧が晴れた気がした。




