第二話 彼の本質、優しい言い訳
「ねえ、杏奈。昨日、移動教室のときにトラブルに巻き込まれたって本当?」
翌日の賑やかな休み時間。
クラスメイトの女子生徒が、心配そうな足取りで私の席へとやってきた。
彼女の声は少し上擦っている。
同情だけでなく、明らかな怯えの色が混ざっているのが分かった。
「うん、でも大丈夫だよ。通りかかった人が助けてくれて、迷っていた教室の前まで案内してくれたの」
私は、完璧で物静かな『高橋杏奈』としてそう告げる。
「それなんだけどさ…。助けてくれたのって、2組の『黒川朔』くんでしょ?
廊下で遠目から見てた人がいて、クラスで騒ぎになってるんだよ」
――くろかわ、さく。
昨日、あの不良グループが恐る恐る口にしていた彼の名前を、私は頭の中で静かに繰り返した。
私の目に文字の並びは映らないけれど、新月の夜のような静けさと、どこか冷たくて深い響きを持つ言葉として残る。
「杏奈は目が見えないから、あの人の恐ろしさを知らなくて当然だけど、近づかない方がいいよ。関わったら終わりだから」
友人は周囲を気にするように声をさらに潜めると、校内に広まっている彼にまつわるおどろおどろしい悪評の数々を一気に捲し立てた。
中学時代、他校の生徒を何人も容赦なく病院送りにしたらしい。
目つきがヤバすぎて、ただ目が合ったという理由だけで殴られた奴がいる。
背中にはものすごい大怪我の跡があって、裏の組織と繋がりがあるという噂まである。
次から次へと溢れ出る『黒川朔』の姿は、私の知っている彼とは全くの別人だった。
クラスの他の席からも、
「あいつが廊下を歩くだけで空気が凍るよね」
「関わったらおしまい」
という、実体のない恐怖に怯える声が聞こえてくる。
「とにかく、今回は運が良かっただけだから。次に見かけたら、絶対に逃げてね?」
友人はそう言って、私の肩をぽんと優しく叩いて自分の席に戻っていった。
一人残された私は、机の上で白杖のグリップをそっと握りしめた。
みんなが彼を怖がり、悪魔か何かのように噂する理由は分かる。
あの地を這うような低い声、周囲の人間が一瞬で逃げ出すほどの圧倒的な威圧感。
姿は見えなくても、彼が「普通ではない」ことくらい私にだって伝わってきた。
でも――。
(…みんなは、彼の声をよく聞いていない)
駅前の雑踏の中で、私を気遣った、あの掠れた「平気か?」という短い問いかけ。
昨日、私の手の中に白杖をそっと戻してくれた、あの不器用な手の温もり。
「もう、迷うなよ」と、私の耳元で囁いたときの、どこか照れくさそうな空気の震え。
目が見えない私だからこそ、みんなが彼の『見た目』に遮られて気づかない、本当の彼を五感で捉えられた気がした。
私は人に迷惑をかけないよう、必死で「しっかり者」の仮面を被っている。
もしかしたら彼も、その凶悪な見た目のせいで、本人の意思とは関係なく「不良」という仮面を被らされているのではないだろうか。
2回も助けてもらったのに、悪い噂だけを信じて避けるなんて、そんなの、絶対に間違っている。
私は小さく息を吸い込み、席を立ち上がった。
しっかり者のプライドが、私の背中を強く押す。
もう一度、彼と話がしたい。
みんなの歪んだ噂の向こう側にいる、本当の黒川くんに、ちゃんとお礼を言いたい。
彼の居場所を突き止めるのは、意外なほど簡単だった。
校内で行き交う生徒たちの声を注意深く盗み聞きしていれば、ヒントは向こうから集まってきた。
『昨日も旧校舎の裏でタバコ吸ってたらしいよ』
『あそこ、薄暗くて不気味だし誰も行かないよね』
旧校舎は現在、資材置き場になっていて生徒の立ち入りは基本的に禁止されている。
薄暗く、人通りがない。だからこそ、周囲の視線を嫌う彼にとっては、最も落ち着ける聖域なのだろう。
放課後。私はクラスメイトたちが部活や下校の準備で騒がしくしている隙に、一人で教室を抜け出した。
手慣れた動作で白杖を振り、渡り廊下を渡って旧校舎へと向かう。
本校舎の賑やかな喧騒が、遠ざかる足音とともに消えていく。
代わりに聞こえてくるのは、古い木造の床がきしむ音と、窓の隙間から入り込む冷たい風の音だけ。
誰もいない、静かすぎる空間。
少しだけ心拍数が上がるけれど、私は歩みを止めなかった。
旧校舎の勝手口から外へ出ると、舗装されていない土と草の匂いが鼻をくすぐった。
白杖の先が、パキリと小さな枯れ枝を折る。
「……誰だ」
その瞬間、冷たい影のような声が、前方の暗がりから降ってきた。
身がすくむほどの低い声。だけど、私はその声の主を知っている。
「2組の、黒川朔くん…ですか?」
私が白杖を止め、声のする方向へまっすぐに視線を向けると、相手の息を呑む気配が伝わってきた。
衣服が擦れ、彼が壁に預けていた身体を起こしたのが分かる。
「……お前、昨日の」
「はい。高橋杏奈です。助けていただいたお礼を、きちんと言いたくて」
私は一歩、彼の方へ歩を進めた。朔は信じられないといった様子で、
低く掠れた声を漏らす。
「……わざわざ、こんなとこまで俺に会いにきたのか。お前、俺の噂、聞いてねえのかよ」
彼の声には、いつもの威圧感の中に、困惑と、どこか自嘲気味な色が混ざっていた。
「近づくな」と警告しているのだ。
「噂なら、たくさん聞きました。
目が合ったら殴られるとか、ヤクザの知り合いがいるとか。でも、私は目が見えません。だから、みんなが怖がるあなたの顔も、噂の出どころも関係ないんです」
黒川くんは何も言わなかった。
私には、心のうちにある感情を押し殺しているかのように感じた。
「私が知っている黒川くんは、駅前で私を助けてくれて、昨日も私を気遣って白杖を渡してくれた、とても優しい人です。
私は、自分の耳と肌で感じた『事実』しか信じません」
一気にまくし立てると、旧校舎の裏に長い沈黙が訪れた。
風が草を揺らす音だけが響く。
沈黙に耐えかねて、私が口を開きかけた、その時だった。
「……はは、お前、本当に頑固だな」
フッと、彼の喉の奥から、小さな、本当に小さな笑い声が漏れ聞こえた。
周囲を怯えさせる不良のトーンではない。
それは、自分の仮面をあっさりと剥がされてしまった少年が、諦めたように零した、とても柔らかい素の笑い声だった。
「……タバコ、吸ってねえからな。ここで、サボってただけだ」
ぶっきらぼうに付け加えられた言葉。
みんなが恐れる凶悪な不良が、目が見えない私に対して、わざわざ「悪いことはしていない」と言い訳をしてくれている。
その不器用な優しさが愛おしくて、私は張り詰めていた肩の力を抜き、小さく微笑んだ。




