第2話 幼き子の名残
謝さんが疑問を募らせていたその時、背後から不意に、泣きじゃくるような叫び声が聞こえていた。「トト(多桑)!」
続いて、小さな人影が工寮のほうからよろめきながら走り出てきた。
「お父さん!トト(多桑)!行かないで……行かないで!」その子は寝ぼけ眼のまま、下駄すらまともに履き替えず、走りながら泣き叫んでいた。その声は、恐れと不安で満ち満ちていた。
彼は、謝さんのまだ五歳に満たない息子――鉄夫(てつお / Tetsuo)であった。
父親が、見知らぬ軍人に連れられて行ってしまうのを目にし、幼いながらも何が起きたのかは理解できずとも、本能的に言い知れぬ恐怖を感じ取ったのだ。場内から様子を窺っていた数人の製材職人たちが、それを見て慌てて大声を上げた。
「鉄夫、落ち着け!」
「待て!待て!転ぶぞ!」
しかし、鉄夫の耳にそんな言葉が届くはずもなかった。彼は謝さんの前まで走り寄ると、猛烈な勢いで飛びつき、両手で父親の太ももに必死にしがみついた。
「トト、行っちゃ嫌だ!行かないで!鉄夫、トトが行くの嫌だ!」小さな身体を激しく震わせ、泣き声は次から次へと溢れ出た。謝さんは息子を見下ろし、胸が締め付けられるような切なさを覚えた。まさにその時、少し離れた場所に立っていた佐佐木少尉が、謝さんに向かって微かに会釈を交わした。
「失礼」
そう言うと、彼は一歩前に踏み出し、片膝を地面につくようにして屈み込んだ。その動作は、まるで自分の弟に接するかのようにごく自然なものだった。彼は鉄夫の肩を優しく叩き、穏やかな声で語りかけた。「鉄夫君、安心しなさい。もう泣かなくていい。お父さんは大丈夫だ、すぐに戻ってくるから」鉄夫の涙が一向に止まらないのを見て、彼は根気強く何度も同じ言葉を繰り返した。そして、軍服のポケットから、肌身離さず持っていた軍用乾パンを一枚取り出すと、鉄夫の手の中にそっと握らせた。
「男の子がいつまでも泣くもんじゃないぞ。お父さんが留守の間、皆のことを頼んだぞ。いいな?」
鉄夫は目の前の見知らぬ日本軍人をぽかんと見つめ、ようやくその泣き声を少しばかり収めた。
そこへ、一人の婦人が慌てて駆け寄ってきた。彼女の目の縁はすでに真っ赤に腫れており、明らかにこの突如とした事態に動転し、どうしていいか分からずにいる様子だった。
彼女こそ、謝さんの妻――貴子(たかこ / Takako)であった。
貴子は片腕で鉄夫を抱き寄せ、もう一方の手で子供の顔の涙をそっと拭った。必死に平静を保とうとしていたが、それでも身体は小刻みに震えていた。何しろ、彼女の人生において最も大切な二人の人間が、今まさに拳銃を携え、腰に軍刀を佩いた日本軍の将校の前に立っているのだ。そしてこの戦時下において、軍人が家にやってくるということが一体何を意味するのか、知る由もなかった。彼女はうつむき、少し震える声で言った。
「ありがとう……ありがとうございます」
佐佐木少尉は即座に直立し、それから貴子に向けて深く頭を下げた。それは、極めて正式な九十度の最敬礼であった。
「大変失礼いたしました。大変失礼いたしました」彼は同じ言葉を二度繰り返した。この思いがけない丁重な礼節に、その場にいた誰もが不意を突かれたように呆気に取られた。
謝さんもまた、目の前の若い将校を改めて見つめ直さずにはいられなかった。彼が現れてからというもの、怒号は一言もなく、傲慢な態度も微塵も感じられない。人々が抱く、あの威張り散らす軍隊や警察のイメージとはまるで違っていた。この瞬間になってようやく、謝さんの張り詰めていた神経が少しだけ緩んだ。彼はまだ少し冷たく震えている妻の手を握りしめ、低く客家語で慰めた。「恐れることはない。俺たちはよその林班の木を盗伐したわけでもなければ、悪いことをしたわけでもない。人がここまで来ちまった以上、逃げ隠れはできん。彼が一体何用で来たのか、確かめるだけだ」
貴子もただ、黙って頷くしかなかった。
謝さんは深く息を吸い込み、それからようやく向き直って、目の前の佐佐木少尉を正面から見据えた。
「少尉どの、本日は自分に一体どのような御用件でしょうか?」
人々の心に立ち込める霧はまだ晴れぬままであった。しかし、彼らの運命を真に揺るがすことになる答えが、今まさに、この若い将校の口から語られようとしていた。




