第10話 辛い日々を生き抜いた女性は、涙を流さない。泣いたところで、何も変わらないと知っているから。
彼女が家を去る時、一番下の妹をきつく抱きしめて離さなかった。
謝家の貯木場が、謝さんの両手と並外れた度胸によって切り拓かれたものだとするならば、この家を真に支え続けたもう半分の魂は、間違いなく貴子であった。貯木場に集う人々は皆、親しみを込めて彼女を「奥さん」と呼んだ。
いつも優しい微笑みを絶やさず、せわしなく動き回るその女性は、まるで永遠に終わらない仕事と生きているかのようだった。しかし、その落ち着きと強靭さの裏に、どれほど過酷で辛酸に満ちた生い立ちが隠されているかを知る者は、ほとんどいなかった。
貴子の本名は「阿貴」。日本人は彼女を「タカコ」と呼んだ。
彼女は田舎の貧しい客家の農家に生まれた。当時は子だくさんの家庭が当たり前で、暮らしは困窮を極めていた。さらに女の子は「いずれ他家へ嫁ぐ存在」と見なされる時代でもあった。八歳の年、阿貴はよそへ養女に出されることになる。離家の日、彼女はまだ運命という言葉の意味を知らなかった。ただ覚えているのは、母親が立っていられないほど泣き崩れていたこと、速度、そして自分自身が、一番下の妹を死に物狂いで抱きしめて決して離そうとしなかったことだけだ。しかし最後には、養父に手を引かれ、歩き出すしかなかった。
見知らぬ人生へと続くあの田舎のあぜ道を、彼女は生涯、忘れることはなかった。
養父母の家へ着くと、彼女はすぐに「聞き分けの良さ」というものを身に付けさせられた。水の汲み出し、火起こし、鶏の餌やり、洗濯、炊事、精度、そして幼い子供たちの世話。まだ夜が明けぬ内から、日がとっぷりと暮れるまで、毎日が労働の連続だった。彼女は滅多に泣かなかった。不満を口にすることもなかった。なぜなら、涙を流したところで現実が変わりはしないと、知っていたからだ。
十四歳の年、紹介を経て、彼女は日本移民村の診療所で雑用係として働き始め、ここからもう一つの人生を歩み出すことになる。当時の診療所は規模こそ小さかったものの、周辺の山岳地帯においては、最も設備の整った医療機関であった。医師、看護婦、助産婦が常駐し、薬品室も備わっていた。周囲の日本移民や台湾人の小作農を問わず、怪我や病気になれば、大抵の者がここへ担ぎ込まれてきた。山での暮らしは危険と隣り合わせだ。農作業、開墾、伐木、運材の最中に負う、刀傷、鋸傷、斧の傷は、日常茶飯事だった。
貴子は毎日、診療所の中を忙しく駆け回った。洗濯、湯沸かし、炊事、病室の掃除、傷病者への薬の受け渡し。そうして過ごすうちに、彼女はいつしか、消毒、止血、薬の交換、包帯の巻き方といった基礎的な看護の技術を、見よう見まねで立派にこなせるようになっていた。
そして、彼女の運命を決定づけたのが、診療所の坂口医師との出会いだった。
坂口医師は五十歳前後。日本人でありながら、一部の植民地官僚のような傲慢さは微塵もなかった。性質は温厚で、誰に対しても誠実に接し、とりわけ台湾の民衆に対して、並々ならぬ敬意と共感の念を抱いていた。客家語しか話せない農民たちが初めて診療所に足を踏み入れる時、誰もが緊張で身を強ばらせた。そんな時、坂口医師はいつもこう声をかけた。「タカコ、ちょっと手伝ってくれ」
こうして貴子は、医師と患者を繋ぐ重要な架け橋となった。患者のために通訳をし、その不安を和らげ、簡単な治療の手助けもした。次第に、周囲の台湾人農民たちは診療所を恐れなくなり、やがて人々の間でこんな言葉が囁かれるようになった。「坂口先生は、本気で人を救おうとしてくれる日本人だ」
坂口医師もまた、自分が地域の民衆から信頼を得られたのは、貴子の功績が極めて大きいことをよく理解していた。そのため医師は、当時日本人でなければ手に入りにくかった白米や砂糖、日用品などをしばしば阿貴に手渡し、「これで家族を支えなさい」と、彼女の実家への援助を惜しまなかった。




