第9話 ドライヤーの交流
地獄のような風呂と着替えの攻防を終え、俺と神楽は、彼女の部屋へと案内された。
「寝る準備してあげるから、舞衣の部屋で少し待っててね」
志乃さんののんびりとした声に背中を押され、俺たちはガチャリとドアを開けた。
俺の左足と神楽の右足は、依然として忌まわしい赤い紐でガッチリと結ばれたままだ。歩幅を合わせ、もつれないように慎重に部屋へと足を踏み入れる。
神楽舞衣の部屋。
学校では「高嶺の花」と呼ばれ、弓道に青春のすべてを捧げるストイックな女の自室だ。俺は勝手に、木刀が飾られていたり、掛け軸に『質実剛健』とか書かれているような、道場みたいな殺風景な部屋を想像していた。
だが、予想は完全に裏切られた。
「……お前、こういうの好きなんだな」
思わず口から声が漏れた。
部屋の中は、淡いピンクを基調として驚くほど女の子らしかった。棚の上や机の隅には、ちりめん細工のウサギのぬいぐるみや、色鮮やかなトンボ玉の簪、手毬をモチーフにした小さな巾着など、かわいい和小物が所狭しと飾られていたのだ。普段の妥協を許さない氷のような態度からは想像もつかない、女の子らしい一面だった。
「っ……! み、見ないでよ!」
俺の視線に気づいた神楽が、顔を真っ赤にして声を荒げた。
「いや、意外と可愛い趣味してんなと思って。これとか、結構よくできてるじゃん」
俺が棚に飾られていたガラス細工の桜の花に手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
「触らないでってば!」
神楽が慌てて俺の腕を掴み、強引に引っ張った。
「うおっ!?」
ただでさえ足が繋がっていてバランスが悪いのだ。急に引っ張られた俺は体勢を崩し、神楽の方へと倒れ込んだ。
「きゃっ……!」
二人して、部屋の真ん中に敷かれたラグマットの上にドサリと倒れ込む。俺の腕の中に、神楽がすっぽりと収まるような形になってしまった。風呂上がりの、ほんのり熱を持った体温と、シャンプーの甘い香りが至近距離で鼻を掠める。
数秒の沈黙。互いの心臓の音が聞こえそうなほどの距離で、神楽の黒曜石のような瞳が俺を至近距離で見つめ返していた。
「……お前が急に引っ張るからだろ」
「あ、あなたが勝手に触ろうとするから……っ! 早くどいてって!」
神楽は鬼灯のように顔を赤くして、俺の胸をバンバンと叩いた。俺も慌てて体を起こし、互いにそっぽを向いて座り直した。
「……別に取って食おうとしたわけじゃねえよ。ただ、学校のストイック女王にも、年相応の普通の女の子みたいなところがあるんだなって、ちょっと感心しただけだ」
俺がぼやくと、神楽は膝を抱えながら、少しだけバツの悪そうな顔をした。
「……悪い? 昔から、こういう小さな飾りが好きなのよ。弓道の道具の手入れと同じで、見てると心が落ち着くから」
「悪くねえよ。むしろ、少しは人間味があって安心した」
俺の言葉に、神楽は微かに目を丸くした後、ふいっと顔を背けた。だが、その耳元がさらにほんのりと赤くなったのは、気のせいではないだろう。
「先に……髪、乾かすわよ」
照れ隠しのように、神楽が立ち上がってドライヤーをコンセントに繋いだ。
ラグの上に座り直した彼女の隣に、紐の緩みの限界である数センチの距離を開けて俺も座る。
ブォォォォッ!
けたたましい音と共に、ドライヤーから熱風が吹き出した。神楽が先にドライヤーで髪を乾かし始めたのだが、横にいる俺にその熱風がダイレクトに当たって、とにかく熱い。
「あっちぃ! おい、熱風が全部こっちに来てんだけど!」
「仕方ないでしょ、足が繋がってるんだから! 少しくらい我慢してくれる!」
「いや、すでに限界だ! 目が乾く!」
俺はたまらず手を伸ばし、神楽の手から強引にドライヤーを取り上げた。
「ちょっと、何するのよ!」
「俺がやってやる。お前はこっち向け」
俺は神楽と向かい合う形になり、空いた手で彼女の長い髪をすきながら、直接ドライヤーで髪を乾かしてあげることにした。
「なっ……ちょ、久慈浦君!?」
「こっちの方が効率的だし、何より俺に風が当たらないからな。じっとしてろ」
至近距離で髪を触られ、神楽は肩をビクッと震わせて照れたような表情を見せた。
だが、俺が丁寧に指を通しながら乾かしていくと、彼女は次第に抵抗をやめ、おとなしく目を伏せた。
指の隙間をすり抜けていく、サラサラとした黒髪。先ほどの風呂での攻防のせいで、互いの距離感がおかしくなっているのはわかっていた。だが、こうして向かい合って座り、彼女の髪を乾かしていると、不思議と嫌な気はしなかった。
「……あなた、意外と手つきが器用なのね」
ドライヤーの音に紛れるように、神楽が小さな声で呟いた。
「深夜バイトで、皿洗いから何から効率よくこなす癖がついてるだけだ」
「ふーん……」
神楽はそれ以上何も言わず、ただ心地よさそうに目を細めていた。
やがて神楽の髪が乾ききると、俺はドライヤーのスイッチを切った。
「ほら、終わったぞ」
「……ありがとう。じゃあ、次」
今度は交代して、俺が髪を乾かしてもらう番になった。
神楽は俺の手からドライヤーを受け取ると、今度は俺の頭に向けてスイッチを入れた。
ブォォォォッ!
「お、おい、自分でやれるって!」
「いいからじっとしてて。お返しよ」
神楽の細い指先が、俺の短い髪を掻き回す。少し乱暴だが、不思議と悪くない感触だった。
ふと、神楽が風呂場でのやり取りを思い出したのか、冗談めかした口調で笑いかけてきた。
「ほーら、我が弟よ。おねぇちゃんが乾かしてあげるわ」
からかうようなその声に、俺は思わず吹き出しそうになった。
「まだそれやんのかよ。ってか、お前の方がドジ踏んでたんだから、お前が妹だつったろ」
「誰が妹よ! 私はしっかり者のお姉ちゃんでーす!」
互いに軽口を叩き合いながら、俺たちは気がつけば声を出して笑っていた。
今日一日、最悪のくじ引きから始まり、絶望的な診断、親たちの修羅場、そして地獄のトイレと風呂。何もかもが最悪で、精神は限界まで削られていたはずだった。
だが、この瞬間だけは、俺も神楽も、今日初めての自然な笑顔を浮かべていた。
冷笑的で無気力だった俺と、妥協を許さない氷のような高嶺の花。絶対に交わるはずのなかった俺たちが、忌まわしい赤い紐のせいで、今こうして向かい合って笑い合っている。
「……ふふっ、ほんと、最悪な一日だったわね」
ドライヤーを止め、神楽が可笑しそうに息を吐く。
「ああ。俺の人生で、ダントツで最悪な日だ。いや、人類史上初じゃねぇか?」
俺も素直に頷き返した。
この非日常がいつまで続くのかは誰にもわからない。明日の朝、目が覚めたら嘘みたいに紐が解けているかもしれないという淡い期待を胸に抱きつつも、俺たちはしばらくの間、この奇妙で騒がしい時間を共有していた。




