第8話 バスタイム
脱衣所でバスタオルを二人の間にカーテンとして設置して、渡された志乃さんチョイスの狂気のアイテム(紐ビキニ)に、何とか着替え、バスタオルの壁を外した。
「……あのさ」
「……何よ」
目の前にいるのは、紐ビキニ姿の神楽。
透き通るような白い肌を、布面積の狭い白いビキニで三点を隠している。
いくら水着とはいえ、童貞の俺には刺激が強すぎる。目のやり場に困るなんてもんじゃない。視線を少しでも下げれば、彼女の白い肌とビキニの紐が嫌でも目に入ってしまう。
「必要以上に見ないでよ。……ジロジロ見たら、目を射抜くからね」
「見てねえよ! 自意識過剰か!」
俺たちは浴室のドアを開けた。
互いに顔を背けながら一歩を踏み出した、その瞬間だった。
「あっ……!」
歩きづらい足かせや滑りやすい床のせいで、密着度が普段の何倍にも跳ね上がる。
さらに最悪なことに、足首の紐が濡れてさらに固くなるおまけ付きで、神楽の足がツルリと滑ったのだ。
バランスを崩した彼女を、俺がとっさに両手で抱きとめた。
「っと……! 危ねえっ!」
「きゃっ……!」
ガッチリと抱き止めた瞬間、水着越しに神楽の柔らかな感触と、少し高めの体温がダイレクトに伝わってきた。
至近距離で交差する視線。
「……っ! さ、触らないでよ!」
神楽は顔を福神漬けのように赤くして、俺の胸板をバンッと叩いた。
「助けたんだろ。俺だって好きで触ってんじゃねえよ! お前が滑るからだろ!」
これ以上こんな状態で立っていたら心臓が持たない。俺たちはお互いに並んで、一つしかないシャワーヘッドを奪い合いながら、相手を見ないように体を洗い、逃げるようにして、お湯の張られた浴槽へと滑り込んだ。
狭い浴槽の対角線上に座ろうとするが、足が繋がっているためどうしても距離が近くなる。
湯船につかり、重苦しく気まずい空気が流れる。
ちゃぷん、とお湯が揺れる音だけが響き、湯気が息苦しさを助長させていく。
このいたたまれない沈黙をどうにかしようと、俺はふと思いついた提案をした。
「なぁ……このまま無言でいるのもあれだしさ。俺たち兄弟って設定にしないか?」
「……は? 兄弟?」
「そう。俺たちは仲のいい兄弟で、ただ一緒にお風呂に入ってるだけ。そう思い込めば、少しはこの変な緊張感もマシになるだろ。自己暗示ってやつだ」
神楽は胡乱な目で俺を見た後、ふうっとため息をついた。
「……そうね。この気まずさが紛れるなら、設定でも何でもいいわ。じゃあ、私がお姉ちゃんとして――」
「は? ちょっと待て」
俺はすかさず言葉を遮った。主導権を握られそうになり、しっかりと反論する。
「なんでお前が姉ちゃん設定なんだよ」
「どう考えても私の方がしっかりしてるでしょ! あなたみたいな無気力な兄を持った覚えはないわ!」
「無気力で悪かったな! お前みたいに口うるさい姉ちゃんこそお断りだね! 俺が頼れる兄貴で、お前がドジな妹設定でいいだろう!」
「誰がドジよ! さっき転びそうになったのは床が滑っただけで……!」
「それをドジって言うんだよ!」
完全に不毛な口論となって、互いに一歩も引かない。
「お姉ちゃんって呼びなさいよ!」
「絶対に呼ばねえ! お前が兄貴って呼べ!」
湯船の中でギャーギャーと言い争っているうちに、お湯の熱気と無駄なエネルギーの消費で、めまいがしてきた。
「もう……限界……」
「出るぞ……暑すぎる……」
結局、のぼせる寸前で風呂を出る羽目になった。
だが、試練はまだ終わっていなかった。
体を拭き、部屋着に着替えるというこれまた高難度のミッションが残っているのだ。
部屋着はサイドがスナップボタンやマジックテープで全開になる「医療用・介護用のリハビリズボン」を買ってきてもらっていた。
「いいか、ここからは本当に命懸けの戦いだ」
俺はバスタオルを腰に巻きながら、神楽に宣告した。
「着替えでの攻防は、絶対に互いの視界に入らないことが鉄則だ。絶対にこっちを見るなよ」
「言われなくても分かってるわよ! あなたこそ目を閉じてなさい!」
バスタオルを二人の間にカーテンとして設置して、俺たちは互いに背を向け合い、大きなバスタオルやタオルなどで体を隠しながらドタバタした。
「ちょっと、紐引っ張らないでよ!」
「お前が動くからだろ! こっちはまだパンツ履けてないんだよ!」
「最低! 早く履きなさいよ!」
リハビリズボンのサイドにあるスナップボタンを留める。
パチッ、パチッと音を立てながら、なれないボタンを留めていく。
「あ、痛っ! 指挟んだ!」
「うるさいわね、もう少しそっちに寄って……きゃっ!?」
途中で紐が引っ張られて、神楽が大きくバランスを崩した。
お互いの体に倒れ込みそうになる。
「うおっ!?」
ドンッ! という鈍い音と共に、俺たちは脱衣所の床に折り重なるようにして倒れ込んだ。
俺の胸の上に、まだ上着を半分しか着ていない神楽が乗っかっている。
顔と顔の距離が、わずか数センチ。
湯上がりの紅潮した頬と、潤んだ瞳が目の前にある。神楽の胸元の素肌が、はだけたタオルの隙間からチラリと見えてしまっていた。
「…………っ!!」
「…………っ!!」
互いに息を呑み、時間が止まったように硬直する。
数秒の完全な沈黙の後、脱衣所に絶叫が響き渡った。
「ば、バカァァァッ!! どこ見てんのよ!!」
「お前が動くからバランス崩したんだろ!! 不可抗力だ!!」
神楽の強烈な平手打ちが俺の頬にクリーンヒットした。
俺たちは慌てて体を離し、真っ赤な顔をして背中を向けた。心臓の鼓動が、風呂上がりだからという言い訳が通じないほど激しく打ち鳴らされた。
フラフラになりながら脱衣所から這い出ると、リビングでお盆に麦茶の入ったグラスを二つ乗せた志乃さんが立っていた。
出てきた俺たちに神楽の母親は麦茶を差し出して、ニコニコと微笑んだ。
「お風呂の中で仲良しそうでよかったわ。お姉ちゃんがどうとか、楽しそうな声が聞こえてきたから安心した」
完全に騒がしかったのを勘違いして、微笑ましい同級生のじゃれ合いだと思われている。
「……違うわ、お母さん」
「……仲良くなんて、してません」
俺たちは麦茶を一気に飲み干しながら、げっそりとした顔で否定するしかなかった。
同居初日。越えられないと思っていた境界線は、何とか越えたが、俺たちの尊厳と精神はすでにボロボロだった。
そして、この忌まわしい赤い紐が解ける気配は、まだ一ミリもなかった。
絶望的な密着生活は、まだ始まったばかりなのだ。




