第7話 トイレ攻防
まずは神楽の番だ。
俺はドアのすぐ外に立ち、壁に向かって後ろを向いた。
「絶対、絶対に振り向かないでよ……っ! 少しでもこっち見たら、許さないんだから!」
「分かってるって! 好きでココにいるわけじゃねぇんだ。早くしろ!」
個室のドアは閉められず、衣類を脱ぐ音、肌が触れる気配、が至近距離で流れてくる。
いくら目を背けても、気配までは消せない。すると、神楽は音を消すためにスマホで大音量の音楽を流す作戦に出た。ドンドンと無駄にテンションの高いロックのビートが、静かな夜の神楽家に響き渡る。
俺も負けじと、首にかけていたワイヤレスイヤホンを音量マックスにして必死に耳を塞ぐ。
鼓膜が破れそうなほどのノイズキャンセリングと音楽。それでも、すぐ背後で学校一の高嶺の花が用を足しているという事実が、俺の脳内で葛藤を生み出す。
落ち着け、俺……!無の境地だ、石になれ……っ!
俺は心の中で必死に知らない念仏を勝手に生成して唱えた。
そんな涙ぐましい抵抗をするが、お互いの尊厳と精神が激しく削られていくのがわかった。
しばらくすると、肩がトントンと叩かれた。
イヤホンを外して振り返ると、顔から火が出るほど赤面し、涙目になった神楽が立っていた。
「……お、終わったわよ」
「……次、俺の番な」
「……っ!」
その後、交代して俺も用を足すことになった。
神楽が手を出して、俺にイヤホンを貸すよう要求してきたので、俺はそのまま手渡した。
神楽がドアの外で後ろを向き、イヤホンを装着すると両手で必死に耳を塞いで蹲った。
俺は震える手でリハビリズボンのマジックテープを引き剥がした。ベリベリッという音が無駄に大きく響き、そのたびに神楽の肩がビクッと跳ねるのが視界の端に映る。
便器に座るが、こんな状況では出るものも出ない。だが、出さなければ膀胱が破裂する。
青春を諦め、無気力に生きてきたはずの俺だったが、まさかこんな形で限界まで感情を揺さぶられるなんて、昨日の俺に言っても絶対に信じないだろう。
トイレという大事業を終え、げっそりと頬をこけた俺と神楽は、無言のまま足を引きずるようにして客間へと戻った。
+++
トイレという名の地獄のミッションを終え、客間の畳に泥のように倒れ込もうとした俺の腕を、神楽が強く引いた。
「おい、引っ張んな。精神的な疲労で限界なんだよ……」
「少し付き合って」
有無を言わさぬ口調で、彼女は俺を家の庭へ案内した。
夜の冷たい空気が、火照った顔を少しだけ冷ましてくれた。庭の隅に置かれた縁台に腰を下ろし、俺はやれやれと深く息を吐く。
だが、休む間もなく神楽は立ち上がった。軒下に立てかけてあった、自分の弓を持ち出してきたのだ。
「嘘だろ。まさかこんな状況で練習する気か?」
「当たり前よ。一日でも休んだら、感覚が鈍るの」
ストイックな神楽は、足が繋がっていても「今日の分のシャドー(素引き)」をやろうとした。
「やめとけって。紐のせいで、まともな練習なんてできないだろ」
俺が止めるのも聞かず、彼女が弓を構えるため、俺は付き合わされる羽目になった。
「少し、右足をそっちにずらして。……そう、そこで動かないで」
俺の左足と繋がった右足を軸に、神楽はゆっくりと弓を押し開いていく。
弦を引くたびに、彼女の服の袖が擦れる微かな音が夜の庭に響く。
この時、月明かりの下で至近距離で見せる舞衣の真剣な横顔や、マメだらけの手、そして意外な執念を、俺は間近で見ていた。
弓道のことなど何も知らない俺でも、その張り詰めた空気の重さは分かった。
無駄のない所作、目標だけを見据えるブレない視線。
そして、弦を握る彼女の指先や手のひらに刻まれた、無数の硬いマメ。
それは天賦の才能なんかじゃない。血の滲むような反復練習と、どれだけ苦しくても歩みを止めないという泥臭い努力の結果だ。
「……お前、本当にバカみたいに真面目だな」
無意識に漏れた俺の言葉に、神楽はゆっくりと弓を下ろし、ふっと息を吐いた。
「バカで結構よ。私には、これしかないから。絶対にインターハイに行かなきゃならないの」
その横顔には、いつも俺に向けているような冷たい棘はなかった。
ただ、目的に向かって真っ直ぐに突き進む、純粋で強烈な執念だけがあった。
かつて俺も、応援団で声を枯らしていた頃は、あんな風に熱を持っていたのだろうか。
俺は何も言い返せず、ただ月明かりに照らされた彼女の姿を無言で見つめるしかなかった。
+++
素引きを終えた後、俺たちをさらなる絶望のイベントが待ち受けていた。
汗をかいた以上、お風呂にどうしても入らなければならず、水着を着て一緒に入ることになった。




