第6話 初めての夕食
「ちょっと久慈浦君、わざとやってるの? スプーンが使えないんだけど」
「わざとなわけねぇだろ! 俺は左利きなんだからしょうがねぇだろ。お前が少し下にずれろよ」
「これ以上ずらしたら私が食べづらくなるわ。あなたが脇を締めればいいのよ!」
「飯食う時に脇ガッチリ締める奴がどこにいるんだよ!」
お互いに肘を譲らず、小刻みに腕をぶつけ合いながら小競り合いを演じていると、正面から「ゴゴゴ……」と地鳴りのような効果音が聞こえてきそうな声が響いた。
「貴様ら……食事中にベタベタするな! これから一緒に生活するんだから、譲り合いなさい!」
「お父さん、したくてしてるんじゃないのよ! 物理的にどうしようもないのよ――」
「そうよあなた、怒らないで頂戴。なんだか二人羽織みたいで初々しくて可愛いじゃない」
志乃さんのマイペースなフォローに、厳さんはぐぬぬと唸りながらカレーを一気に口へかき込み、鋭い眼光だけで俺を制裁し続けた。
そんな厳さんの視線に怯えつつも、俺はどうにか肘の衝突を回避しながら、スプーンですくったカレーを一口、口へと運んだ。
「――っ!?」
その瞬間、俺の脳内に衝撃が走った。
口いっぱいに広がるまろやかなコクと、奥深い野菜の甘み。後から追いかけてくる程よいスパイスの刺激。それは、今まで食べたどんな飯よりも「温かい手料理」の味がした。
俺は十年前、まだ幼い頃に母さんを事故で亡くしている。それ以来、親父が男手一つで不器用ながらも俺を育ててくれた。だから、母親の温もりがこもった『家庭の味』の記憶は、俺の中でとっくに色褪せていたはずだった。
それに、親父の会社が倒産して以来、俺の食生活といえば、深夜バイトの合間に急いで流し込むコンビニの安いパスタや、冷めきった惣菜パンばかりだった。生きるために最低限の栄養を摂取するだけの日々。
そんな俺にとって、誰かが手間暇をかけて作ってくれた出来立ての温かい料理は、あまりにも久しぶりで、あまりにも優しかった。
「……美味い」
ぽつりと漏らし、俺は無我夢中でスプーンを動かした。肘がぶつかるのも構わずに、ガツガツと貪るようにカレーを口へ運んでいく。
真っ赤な福神漬けがまたアクセントにいい。
「ちょっと、急にどうしたのよ……」
隣で神楽が呆れたような、それでいてひどく驚いたような声を漏らした。
見ると、神楽はスプーンを止めて俺の顔をまじまじと見つめていた。いつもは頑なでストイックな彼女の瞳に、ほんの少しだけ柔らかい色が混じる。
「……意外と、年相応の顔をして食べるのね。普段のひねくれた態度が嘘みたい」
「っ、うるせえ。こんなうまいカレー初めてで、……っげほっ」
急に話しかけられて動揺し、盛大にむせ返ってしまった。
「ほら、言わんこっちゃないわ。……だらしないわね」
神楽はため息をつきながらも、卓上のティッシュを一枚とり、俺の前に差し出してきた。
「口の横、ルーがついてるわよ。これで拭きなさい」
「……あ、ああ。サンキュー」
差し出されたティッシュを受け取る時、神楽の指先がかすかに俺の手に触れた。途端に、彼女がハッと我に返ったように顔を真っ赤にする。
「べ、別に深い意味はないから!汚い顔のまま隣にいられると私のカレーが不味くなるからよ!」
「分かってるよ! 誰が勘違いするかよ!」
互いに顔を背け、再び気まずい沈黙の中でカレーを口に運ぶ。厳さんは「娘にティッシュを取らせるとは何事だ!」とさらに顔を般若のようにさせていたが、俺の胸の奥には、カレーの温かさと、神楽が見せた意外な素顔の余韻がじんわりと残っていた。
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食後。
真の地獄はここからだった。
着替えを終え、畳の上でぐったりとしていると、神楽がもじもじと落ち着きのない動きを見せ始めた。
人間である以上、避けては通れない生理現象。そう、トイレだ。
どちらかが限界を迎えれば、必然的にトイレも一緒に行動せざるを得ない過酷な現実が待っていた。
「……どうしても、行くのか」
「……もう限界。行かないと、破裂しちゃうわ」
神楽は顔を真っ赤にして、消え入りそうな声で答えた。いつもは凛としている彼女の、見たこともない弱りきった表情。
俺たちは二人三脚で立ち上がり、足並みを合わせるようにして、すり足で廊下の奥にあるトイレへと向かった。
しかし、便器を目の前にして分かってはいたが決定的な絶望に直面する。
足が紐で繋がっているため、個室のドアは閉まらないのだ。
「……俺、外に出ているから」
「お願い。紐の限界まで離れててちょうだい」
足首を繋ぐ赤い紐の緩みは、せいぜい数センチ。必然的に「一人が便座に座り、もう一人はドアの外(紐の長さの限界)で後ろを向いて耳を塞ぐ」というルールが作られたが、音が聞こえる・聞こえないの攻防が始まった。




