第10話 父親の見回り
ドライヤーのモーター音が消え、部屋に不意の静寂が降り下りた。
他愛のない冗談を言い合い、今日初めて笑い合った余韻が、空気中にほんのりと漂っている。
だが、ふと俺の視線が部屋の奥へ向いた瞬間、その和やかな空気は一瞬にして凍りついた。
……ベッドだ。
部屋の隅に置かれているのは、どう見ても一人用のこぢんまりとしたシングルベッドだった。
俺は引きつった顔でベッドを指差した。
「おい、神楽。今夜、まさかあれで寝るのか……?」
「え……?」
俺の視線の先を追った彼女も、ハッとしたように目を見開き、一瞬で顔面を蒼白にさせた。
忌まわしい赤い紐で繋がれた俺たちの足首は、せいぜい数十センチしか離れられない。物理的に離れることが不可能なこの状態で、もしこの狭いシングルベッドで二人で寝るとなれば、どうなる?
密着不可避だろ……!
俺は内心で激しく怯えた。
風呂場でのあの極限の緊張感がフラッシュバックする。これ以上、至近距離で彼女の体温や匂いを感じ続けたら、本当に俺の精神が崩壊してしまう。
神楽も自分のベッドと俺の顔を交互に見比べ、唇をワナワナと震わせている。
「む、無理よ! いくらなんでも、この狭さで一緒に寝るなんて……っ!」
「俺だって嫌だよ! 床で寝るか!? でも紐の長さ的に、お前がベッドで俺が床だと足がちぎれるぞ!」
絶望的な就寝問題に直面し、俺たちがパニックに陥りかけた、まさにその時だった。
「二人とも、お待たせー」
少しだけ開いていたドアの隙間から、志乃さんがひょっこりと顔を出した。
「客間の準備ができたわよ。畳の部屋に、布団を二つ並べて敷いておいたからね」
その言葉を聞いた瞬間、俺と神楽は同時にその場へへたり込み、魂の抜けたような深い安堵の溜息を吐いた。
……助かった。
心底そう思うと同時に、冷静になれば(当たり前だよな)と一人で納得する俺がいた。いくら非常事態とはいえ、年頃の男女をシングルベッドに押し込むほど、この家の親は狂っていなかった。
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俺たちは二人三脚の要領で歩幅を合わせ、一階の客間へと移動した。
広い畳の部屋の中央には、二組の布団が少しの隙間を空けて並べられていた。
「やっと終わる……」
長くて最悪だった一日が、ようやく終わる。早く眠りたい。そう思って布団に倒れ込もうとした俺の腕を、神楽がガシッと掴んだ。
「待って。寝る前に日課があるの」
「は? 日課?」
神楽は畳の上に座り込むと、ゆっくりと深呼吸をし、弓道のための柔軟体操を始めようとしたのだ。
「おい嘘だろ、今からやるのかよ!?」
「一日でも休んだら筋肉が固くなるわ。ほら、あなたも座って」
ストイックな彼女のルーティンに、足が繋がっている俺も強制的に引っ張られる羽目になった。
「いててててっ! 無理! 俺、体固いんだよ!」
神楽が前屈をするたびに、紐で繋がれた俺の左足も無慈悲に引っ張られる。
「少しは我慢しなさい! ほら、息を吐いて!」
「限界だって! 足の筋がちぎれる!」
文句を言いながらも付き合わされる俺。だが、痛みに顔を歪めながらも、至近距離で彼女の真剣な横顔が視界に入った。妥協を許さないその姿勢。指先にできた無数の硬いマメ。こんな異常事態でも、彼女は己の目標であるインターハイ出場に向けて、決して歩みを止めようとしないのだ。
強制ストレッチを終え、俺たちは息を弾ませながら布団に入った。
客間の襖は、父親である厳さんの命令通りに全開にされている。
「……じゃあ、電気消すぞ」
「ええ。おやすみなさい」
俺が部屋の明かりを消し、暗闇が訪れた、まさにその直後だった。
ズシン、ズシンと、廊下から重い足音が近づいてきた。
「……ッ!」
ビクッとして体を起こすと、そこには木刀を片手に握りしめた厳さんが、般若のような険しい顔をして立っていた。暗がりの中で鋭い眼光がギラリと光り、異様な威圧感を放っている。
「……見回りに来た」
地を這うような低い声。現役の警察官である彼から放たれる本気の殺気に、俺は背筋が凍りつくのを感じた。
「ドアは全開だな。よし!」
「あ、開いてます! 全開です!」
俺が慌てて答えると、厳さんは木刀の切先を軽く畳に押し当て、俺たちを値踏みするように睨みつけた。
「少しでも妙な真似をすれば、容赦はせんぞ。……舞衣、何かされたら大声で叫べ。ゼロ秒で駆けつける」
娘を守るためとはいえ、その異常なまでの圧と過保護ぶりに、俺は息を呑んだ。
だが、そんな厳さんの重苦しい態度に対し、神楽の反応は予想外に冷たいものだった。
「……お父さんは心配しすぎです」
布団に座ったまま、神楽は父親の目を真っ直ぐに見据えて言い返した。
「彼は紳士的です。そんな野蛮な真似はしませんよ」
その言葉には、ただの反発とは違う、どこか突き放したような冷たさが混じっていた。
「……そうか。ならばいいが」
厳さんはそれ以上何も言わず、不満げに鼻を鳴らすと、重い足音を立てて廊下の奥へと消えていった。
静寂が戻った客間。
俺は隣に横たわる神楽の横顔を盗み見た。彼女はギュッと布団の端を握りしめ、微かに俯いている。
由緒ある弓道一家。全国大会2位の実績を持つ厳格な父親。幼少期から「結果を出して当然」という重圧の中で育ってきた彼女の環境。
今の短いやり取りだけで、俺は神楽家という空間に横たわる「結果を求める重圧」と、親子の間に生じている「微妙な距離感」を、肌で察知してしまった。
彼女のあのストイックさは、ただ弓道が好きだからという理由だけじゃない。この息の詰まるようなプレッシャーの中で、決して潰れないように必死に自分を保ち続けている証なのだ。
「……寝るわよ」
「あ、ああ。おやすみ」
俺たちは並んだ布団の中で目を閉じた。繋がれた足首の重みを感じながら、長く過酷な同居の初日の夜が更けていく。




