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第11話 目覚め

 客間のふすまの向こう側は完全に静まり返り、古い日本家屋特有の静寂が夜の闇に溶け込んでいた。

 並べられた二つの布団。天井の木目をぼんやりと見つめながら、俺は深い溜息をこぼした。


「……お前、息苦しくないのかよ」


 暗闇の中、ポツリと呟いた俺の声に、隣の布団から微かな衣擦れの音が返ってきた。


「何が?」

「あのお父さんの圧だよ。結果を出せ、隙を見せるな。ずっとあんな風に監視されてるみたいでさ」


 俺の頭には、先ほどの厳さんの異常なまでの威圧感と、それに冷たく返した神楽の姿がこびりついていた。


「別に、昔からああだから。期待されるのは当然のことよ」

「だからって、こんな足が繋がった異常事態でも弓道の練習しようとしたりさ。……こんな状況になってまで、まだ目標をあきらめないのかよ」


 俺は、無意識のうちに自分の過去を彼女に重ね合わせていた。

 親父の会社が倒産し、学費と生活費を稼ぐために深夜バイトに明け暮れた日々。どれだけ熱意があっても、どれだけ応援団で声を枯らしたくても、疲労と貧困という「環境」の前ではすべてがへし折られた。

 努力なんて、どうせ環境一つで無になる。


「この赤い紐みたいにさ、どうにもならないことってあるだろ。頑張ったって、どうせ何やったって無駄だろ」


 自嘲気味に吐き捨てた俺の言葉に、隣の神楽がピクリと動いた気配がした。

 ゆっくりと、彼女が布団の中で寝返りを打ち、こちらを向く。暗闇の中でも、彼女の瞳が鋭い光を放っているのがわかった。


「……あなたの一番嫌いなところ、それよ」

 氷のように冷たい、けれど確かな熱を帯びた声が響く。

「環境のせいにして腐るのをやめたら?」

「っ……」

「紐が解けなくても、環境が最悪でも、私は絶対にインターハイを諦めない。言い訳をして最初から諦めている人間と一緒にしないで」


 その言葉は、刃のように鋭く俺の胸に突き刺さった。

 彼女のストイックさは、才能や環境に恵まれているからじゃない。どれだけ理不尽な状況でも「歩みを止めない」と決めた、凄まじい執念と覚悟の裏返しなのだ。


 何も言い返せなくなった俺は、ただ無言で彼女から背を向けた。

 神楽もそれ以上は何も言わず、反対側を向いた。

 背中合わせのまま、繋がれた足首の重みだけを感じながら、俺たちは深い眠りへと落ちていった。


 +++


 翌朝。

 チュン、チュンという雀の鳴き声と、障子越しに差し込む柔らかな朝日で、俺はゆっくりと意識を浮上させた。


 ……ん、重い……。


 胸のあたりに、ズシッとした心地よい重みを感じる。そして、鼻腔をくすぐる、昨日嗅いだばかりの甘いシャンプーの香り。

 俺はまだぼんやりとした頭で、ゆっくりと目を開けた。


「…………は?」


 視界いっぱいに広がっていたのは、透き通るような白い肌と、長いまつ毛だった。

 神楽舞衣の顔が、俺の顔からほんの数センチの距離にあった。


「なっ……!?」


 驚いて飛び起きようとしたが、体が動かない。

 夜中に寝ぼけた神楽が、無意識のうちに俺の布団に潜り込み、あろうことか俺の胸にガッチリと抱きついていたのだ。

 さらに最悪なことに、足首の紐が互いを引き寄せたせいで、布団の中では俺たちの足がとんでもない体勢で複雑に絡み合っていた。俺の太ももに神楽の柔らかな膝が乗り上げ、彼女の腕は俺の背中に回されている。


「お、おい! 神楽、起きろ!」


 パニックになった俺が声を上げると、目の前にある長いまつ毛が震え、彼女の瞳がゆっくりと開かれた。

 寝起きのトロンとした目が、至近距離にある俺の顔を捉える。


 一秒。二秒。


 互いの状況を脳が理解するまでの、永遠にも似た空白の時間。


「…………ッ!!」


 神楽の顔が、文字通り瞬時にして沸騰したように真っ赤に染まった。

 即座にビンタが飛んできてもおかしくない状況だ。俺は身をすくめて衝撃に備えた。

 だが、神楽は怒る前に、完全にフリーズしてしまった。

 密着しすぎているせいで、薄い部屋着越しに俺のダイレクトな体温が伝わっているのだろう。そして何より、ドクン、ドクンと早鐘のように打ち鳴らされる俺の心臓の鼓動が、抱きついている彼女の胸元へと直接伝わってしまっているのだ。


「あ、の……これ、不可抗力っていうか……お前が夜中に……」


 俺がしどろもどろに言い訳をすると、神楽は涙目になりながら、コクコクと小さく頷いた。

 二人とも、羞恥と熱で頭がショートしてしまい、完全に固まってしまう。


 その時、俺の脳裏に一筋の希望の光が閃いた。


「ま、待てよ! ひ、紐はどうなってる?」

「え……? そうだったわ。一晩経って解けているかも」


 俺の言葉に、神楽もハッとして目を見開いた。

 俺たちは弾かれたように布団を跳ね除け、絡まり合った足を急いで解いた。

 そして、祈るような気持ちで、二人の足首を繋ぐ忌まわしい赤い紐を覗き込んだ。


「……」

「……」


 紐は、微塵も緩んでいなかった。

 昨日グラウンドで結ばれた時のカチカチの状態のまま、俺たちの足首をガッチリとホールドしている。引っ張ってみても、ビクともしない。


「……全然、ダメじゃねえか」

 俺が力なく呟くと、神楽はガクリと肩を落とし、畳の上にへたり込んだ。

「……いつまで続くのかだけでも教えてほしいわ」

「まったくだ……」


 朝一番のゼロ距離ハプニングと、無駄に終わった期待。

 精神力をゴリゴリと削られ、俺たちは深い絶望の溜息を吐きながら、長く過酷な同居生活の二日目の朝を迎えたのだった。

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