第45話 水鏡湖
夏の青空の下、俺たちは並んで歩いていた。
行き先は、水鏡市の郊外にある裏山。そして、その麓に広がる深く静かな「水鏡湖」だ。
足首には、もう何もない。
俺たちは完全に自由で、離れて歩こうと思えばいくらでも離れられる。
だが、俺の左手と、舞衣の右手は、歩くたびに微かに触れ合っていた。
人混みを避けるように路地を曲がった時、俺は無意識に「危ない」と舞衣を引き寄せようとして、空振りしてしまった。今までなら、紐を引っ張れば自然と彼女の体をコントロールできたのに。
「……あ、悪い。つい癖で」
俺が空を切った左手を見て苦笑すると、舞衣も可笑しそうに笑った。
「ふふっ。紐がないと、逆にどう歩いていいか分からないわね」
「そうだな。……でも、これならどうだ?」
俺は、空振りした左手をそのまま伸ばし、舞衣の右手にそっと触れた。
そして、彼女の細い指の間に自分の指を絡ませ、ギュッと繋いだ。
ダッシュで転びそうになった時に無意識に繋いだ時とは違う。自分の意志で、相手の温もりを求めて繋いだ手。
舞衣は少しだけビクッと肩を揺らしたが、すぐに俺の手を優しく、力強く握り返してくれた。
マメだらけの彼女の手のひらの感触が、今は何よりも愛おしく感じた。
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木漏れ日の差し込む山道を抜け、俺たちは水鏡湖のほとりへとたどり着いた。
湖面は初夏の太陽を反射して、キラキラと穏やかに輝いている。
ここは、大正時代に身分違いの理由から引き裂かれた二人の生徒が心中を図った悲恋の舞台であり、俺たちの足を縛った「比翼の縛」の発端となった場所だ。
「……着いたな」
俺は、持っていた小さな紙袋から、ささやかな白い百合の花束を取り出した。
「星野から聞いたんだ。呪いを解いた報告も兼ねて、ここに花を手向けるのが筋だろうって思ってな」
「あなたらしいわね。でも、私もそうしたかったから……嬉しいわ」
俺たちは湖畔の、かつて神社があったとされる跡地に向かって並んで立ち、そっと花束を置いた。
そして、二人で静かに目を閉じ、手を合わせる。
大正時代の、悲しい恋人たちへ。
あんたたちの執念は、めちゃくちゃ迷惑で、理不尽で、本当に最悪な呪いだった。刃物も通さないし、無理やり解こうとすれば肉体が引き裂かれるような激痛が走るし。
でも……
俺は目を開け、隣で静かに祈っている舞衣の横顔を見つめた。
「……怒ってない?」
祈りを終えた俺が尋ねると、舞衣はゆっくりと目を開け、不思議そうに首を傾げた。
「怒る? 誰に?」
「この呪いを残した、大正時代の連中にだよ。お前、インターハイに出られなくなる寸前まで追い詰められたんだぞ。もっと恨んでもいいはずだろ」
俺の言葉に、舞衣は湖面を見つめたまま、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「怒ってなんかないわ。……むしろ、感謝しているくらい」
「感謝?」
「ええ。だって、あの紐がなければ……私はきっと、あなたとまともに話すこともなく、卒業していたと思うから」
舞衣は俺の方へ向き直り、真っ直ぐに俺の瞳を見据えた。
「あなたが本当は誰よりも熱くて、優しくて、頼りになる人だってこと。あの紐があったから、私は知ることができた。……私を、あなたと引き合わせてくれたんだもの。恨む理由なんて、どこにもないわ」
その言葉は、俺の心の中にあった思いと、全く同じだった。
俺だって、あの強制的で最悪な同居生活がなければ、こいつの芯の強さも尊さも、一人でプレッシャーに耐えていた脆さも、知ることはなかった。
一生、斜に構えたまま、誰のことも本気で好きになれずに生きていたかもしれない。
「……俺も、同じ気持ちだ」
俺は、舞衣の手を、もう一度ギュッと握りしめた。
「彼らのおかげで、俺はお前と出会えた。だから……ありがとうって、言っておきたかったんだ」
静かな湖畔に、初夏の風が吹き抜ける。
呪いという過去の悲恋の象徴だったこの場所で、俺たちは互いの意志で隣にいることの喜びを、深く噛み締めていた。
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水鏡湖のほとりに並んで立ち、静かに手を合わせた後、俺たちは湖畔にぽつんと置かれた古い木製のベンチに腰を下ろした。
夏の日は長く、時刻は夕方に差し掛かろうとしているのに、空はようやく淡い茜色に染まり始めたばかりだった。
風が周囲の木々をざわめかせ、遠くでひぐらしの鳴く声が響いている。
湖面が夕日を反射して、キラキラと眩しい黄金色に輝いていた。
俺と舞衣は、肩が触れ合うほどの距離でベンチに座っていた。
足首を縛るものはもう何もないのに、こうして自然と隣に寄り添っているのが、なんだかひどく懐かしく、心地よかった。
「……もうすぐ、インターハイの本戦だな」
俺がポツリと静寂を破ると、舞衣は湖面を見つめたまま、静かに頷いた。
「ええ。念願だった全国の舞台。……お父さんが二位になった、あの場所へ行くの」
その声には、予選の前に道場でプレッシャーに押し潰されそうになっていた時の震えは、微塵もなかった。
今の彼女の横顔は、ただ真っ直ぐに自分の目標を見据える、凛とした強さと自信に満ち溢れている。
あの大正時代から続く「比翼の縛」という理不尽な呪いを乗り越え、彼女は本当の意味で強くなったのだ。
「本戦では俺が真後ろに立って、お前のスタンスを体幹で支えてやってもいいぞ」
俺が冗談めかして言うと、舞衣は「ふふっ」と小さく吹き出した。
「バカ言わないで。予選でもダメだと言われたのにもしそんなことしたら、本当に一発で失格よ。……でも、大丈夫。私の体には、あなたが支えてくれた重心の感覚が、ちゃんと染み付いているから」
舞衣は自分の胸元にそっと手を当てて、力強く言った。
俺は、そんな彼女の頼もしい姿を見て、自然と口元を綻ばせた。
「なぁ、舞衣」
俺はベンチに座ったまま体を少し彼女の方へ向け、真っ直ぐにそのブラックスピネルのような瞳を見つめた。
「来月のインターハイ本戦……俺も、応援に行っていいか?」
俺の問いかけに、舞衣は一瞬だけ目を丸くして、それから、今日一番の、弾けるような満面の笑みを浮かべた。
「もちろんよ、来てほしいわ」
彼女は少しだけ照れくさそうに視線を落とし、白い頬を夕日と同じくらい赤く染めながら続けた。
「……むしろ、あなたが隣にいないと落ち着かない体になってるほどよ」
その言葉に、俺の胸の奥がじんわりと、何よりもずっと熱くなるのを感じた。
「俺、応援団に復帰しただろ? 毎日、腹筋と発声練習で死にそうになってるんだぜ。昔みたいに途中で逃げ出さないように、あの大河が鬼コーチになってしごいてくるしな」
「ふふっ、轟くんらしいわね」
「だからさ……今度は物理的な体幹じゃなくて、俺の『声』で、お前を支えてやる。全国のどの応援団よりもでかい声を出して、お前の矢を的のど真ん中まで届かせる手伝いをさせてくれ」
俺の不器用な宣言に、舞衣は嬉しそうに何度も頷いた。
「ええ、期待しているわ。私の専属の、一番の応援団長さん」
俺たちは見つめ合い、静かな湖畔で声を立てて笑い合った。




