第43話 復帰宣言
昼休みのチャイムが鳴り、生徒たちが食堂や購買へとどっと押し寄せる。
俺もパンを買おうと、喧騒に包まれた廊下を一人で歩いていた。
その時、九十度横から歩いてくる人影に、俺の足がピタリと止まりそうになった。
舞衣だ。
凛とした姿勢で歩く彼女の姿は、やはり学校一の高嶺の花という言葉がしっくりくる。周囲の生徒たちが、彼女の纏うオーラに気圧されたように道を空けていく。
朝の気まずいやり取りから数時間。俺は心臓が早鐘を打つのを感じながら、努めて平静を装い、そのまま前へと歩みを進めた。
舞衣も俺の存在に気付いたらしい。彼女の瞳が微かに揺れ、歩くペースがほんの少しだけ遅くなった。
近づいてくる。
あと五メートル、三メートル。
何か声をかけるべきだろうか。それとも、自然にすれ違うべきか。
「あ……」
すれ違いざま、俺の口から無意識に声が漏れかけた。だが、舞衣も同時に何かを言おうとして口を開き、お互いにタイミングを逃して言葉を飲み込んでしまう。
極度の緊張感の中、俺たちが真横に並び、同じ方向へ進みだした、その瞬間だった。
トン、トン。
廊下の床を叩く上履きの音が、見事なまでに重なり合った。
「え……?」
俺は思わず足元に視線を落とした。
俺の左足が前に出た瞬間、舞衣の右足がコンマ一秒の狂いもなく同時に踏み出されていた。俺が次のステップに移ると、彼女も全く同じタイミングで足を運ぶ。
紐なんて、もう結ばれていないのに。
俺たちは無意識のうちに、あの過酷な同居生活で互いの体に染み付いた「二人三脚の歩幅」に合わせて、歩調を完全に揃えてしまっていたのだ。
タタッ、と。
互いにハッとして、俺たちは全く同じタイミングでその場に立ち止まった。
横を向き、視線を交差させる。
「お前……」
「あなたこそ……」
俺たちは自分たちの足元と相手の顔を交互に見比べた。
呪いの紐は解けた。それでも、何千歩、何万歩と合わせてきた相手への気遣いと歩幅は、俺たちの体から消え去っていなかったのだ。
その事実が、たまらなくむず痒くて、そしてなんだかひどく嬉しかった。
プッ、と。
最初に吹き出したのは舞衣だった。彼女は口元を手で覆い、肩を揺らして笑いを堪えている。俺もつられて、声を出して笑ってしまった。
「なんだよ、それ。完全に体が覚えちまってんじゃねえか」
「あなただって同じでしょ。……本当に、しょうがないんだから」
周囲の生徒たちが不思議そうに俺たちを見ているのも構わず、俺たちは廊下の真ん中で、互いに顔を真っ赤にしながら照れ笑いを交わした。
物理的な呪いは解けたけれど、俺たちの間にある見えない糸は、そう簡単には解けないらしい。
+++
放課後のチャイムが、校舎に鳴り響いた。
クラスの連中が部活や遊びへと向かう中、俺は自分の鞄を肩に担いで教室を出た。
もう、呪いの紐はない。俺が弓道場へサポートに行く「義理」は、完全に消滅した。このまま真っ直ぐアパートに帰って、適当に時間を潰せばいい。
だが、校門へと向かうはずの俺の足は、無意識のうちに弓道場のある方向へと向かっていた。
道場の陰から、そっと中の様子を窺う。
夕暮れの光が差し込む射位に、舞衣が一人で立っていた。
弓を構え、的を見据えるその姿は、インターハイへの切符を手にした絶対的なエースとしての風格に満ちている。
パーンッ!
鋭い弦音と共に、矢は見事に的の中心を貫いた。
完璧な射だ。俺がいなくても、彼女の体幹はもうブレることはない。
けれど、弓を下ろした彼女の背中は、どこかぽっかりと穴が空いたように寂しそうに見えた。彼女がふと背後を振り返る。そこに俺の影を追うような視線を向けていた。
舞衣が小さく息を吐き、視線を道場の外へと向けた。
その時、柱の陰に立っていた俺と、バチリと視線が交差した。
「……駿?」
舞衣が驚いたように目を丸くする。
見つかってしまったからには、隠れている意味はない。俺は頭を掻きながら、道場の中へと歩み出た。
「よお。……射の調子は良さそうだな」
「ええ。でも……」
舞衣は弓を握る手を少しだけ緩め、俺の顔をじっと見つめた。
「背中が、少し寒いわ。あなたが後ろにいないと、なんだか調子が狂うみたい」
「バカ言え。完璧に的のど真ん中射抜いてたじゃねえか」
照れ隠しに笑う俺に、舞衣もふふっと柔らかく微笑んだ。
呪いのせいじゃなく、自分たちの意志でこうして向き合って笑い合えることが、今は何よりも心地よかった。
「なぁ、舞衣。実はさ……お前に言っておきたいことがあって来たんだ」
俺は表情を引き締め、真っ直ぐに彼女の黒サファイアのような瞳を見据えた。
「今日、大河に言われたんだ。応援団の枠、空けて待ってるって」
舞衣が、少しだけ息を呑む。
「俺……応援団に再入部することにした」
親父の会社が倒産して、環境のせいにして逃げた過去。
どうせ無駄だと諦めていた青春。
でも、こいつが泥臭く足掻く姿を見て、俺はもう一度、誰かのために声を枯らしたいと思えるようになったんだ。
「まだブランクはあるし、一からやり直しだけどな。でも、もう逃げないって決めたんだ」
俺が照れくさそうに宣言すると、舞衣は一瞬驚いたように目を見開いた後、花が綻ぶような、今日一番の輝く笑顔を見せた。
「……そう。すごく、いい決断ね」
舞衣は一歩だけ俺に近づき、真っ直ぐに俺の目を見つめ返した。
「私がインターハイに行けたのは、あなたが背中を支えてくれたからよ。だから今度は……私があなたを応援するわ」
「ははっ、なんだそりゃ」
俺は思わず吹き出してしまった。
「俺が応援団に入るのに、お前に応援されるって……なんか変な気分だな」
「いいじゃない。応援団の人だって、誰かに応援されたっていいじゃない」
舞衣も可笑しそうに笑い声を上げる。
夕日を浴びる道場に、俺たちの笑い声が響き渡った。
もう、俺たちの足首を繋ぐ忌まわしい赤い紐はない。
強制された繋がりではなく、互いの意志で選び取った繋がり。
俺は応援団として、舞衣は弓道部のエースとして、それぞれの目標に向かって進んでいく。
だが、その歩幅はきっと、これからもずっと変わらない。
紐がなくても、俺たちはもう、いつまでも二人三脚で並んで歩いていけるのだから。




