第42話 一人の朝
激動のインターハイ予選と、あの屋上での出来事から数日が経過した。
六畳一間の狭いアパートに、朝の鬱陶しい日差しが差し込んでくる。
目覚まし時計を乱暴に止め、俺は一人で布団から身を起こした。
同居している父親はすでに出勤した後だ。
俺は洗面台の前に立ち、蛇口をひねる。
歯ブラシを口に突っ込み、左手でシャカシャカと動かす。
……ぶつからない。
俺の左肘が、誰の邪魔をすることもなく空を切る。
数日前までは、ここで神楽舞衣の右肘とガツガツぶつかり合い、「少しはズレろ」「あなたが気をつけなさいよ」と不毛な口論をするのが日課だった。
口をゆすぎ、鏡を見る。そこには、寝癖のついた俺が一人でポツンと映っているだけだ。
「……なんか、静かすぎんだろ」
独り言が、狭いユニットバスに虚しく響いた。
アパートを出て、学校への道を歩き出す。
だが、その一歩を踏み出すたびに、足首に強烈な違和感を覚える。
とにかく軽いのだ。左足首を縛っていた、あの忌まわしい赤い紐の重みがない。物理的には完全に自由になったはずなのに、俺の体は無意識のうちに「左側に彼女がいる」という前提の歩幅と重心になってしまっていた。
気を抜くと、ついすり足になりそうになる自分に苦笑いする。
呪いは解けた。だが、俺の体に染み付いたあいつのペースは、そう簡単には抜けてくれないらしい。
「おーい、駿!」
校門をくぐり、下駄箱で靴を履き替えようとしていた俺の背中を、ドンッと力強く叩く手があった。
振り返ると、元相棒である轟大河が、暑苦しい笑顔で立っていた。
「痛ぇな。朝から元気すんぎだろ、大河」
「へへっ。お前、ついにあの紐が取れて神楽家から追い出されたんだってな! なんだよその顔、可愛い神楽さんと別居になって寂しいのか? 泣くなよ!」
大河がガハハと笑いながら、俺の肩を組んでぐわんぐわんと揺さぶってきた。
「なっ……泣いてねぇよ! バカなこと言ってんな!」
俺が照れ隠しに大河の腕を振り払うと、大河はふっと真面目な顔つきになった。
「でもよ、駿。お前のその顔、前みたいな死んだ魚の目じゃなくなってるぜ。神楽さんのサポート、最後までやり切ったんだな」
「……まぁな」
「応援団の枠、いつでも空けてるぞ。お前がその気になったら、いつでも声かけてくれよな」
大河のその言葉に、俺は少しだけ驚いたように彼を見た。
環境のせいにして逃げていた俺に、こいつはずっと居場所を残してくれていたのだ。
「……ああ。ありがとな」
俺が短く返すと、大河は満足そうに頷き、「じゃあな!」と嵐のように去っていった。
+++
三年C組の教室のドアをガラリと開ける。
朝の喧騒の中、俺の視線は無意識に、窓際の席へと向かった。
俺の机と舞衣の机は、呪いの期間中、小学生のようにピッタリとくっつけられていた。しかし今は、高梨先生の指示で通常の離れた配置に戻されている。
「おっ、久慈浦! ついに紐取れたんだな!」
「海外の医者の薬が効いたのか? あの化学反応、直ってよかったな!」
席に向かう途中、クラスの連中が次々と声をかけてきた。
「お、おう。まぁな」
適当に誤魔化しながら自分の席に着くと、すでにそこにいた隣の席の舞衣と、バチリと目が合った。
「あ……」
「お、おはよう……」
俺たちは同時に声を出し、そして、同時に顔から火が出るほど赤面して視線を逸らした。
気まずい。死ぬほど気まずい。
呪いという「物理的に離れられない」という強力な言い訳がなくなった今、俺たちの間にはどうしようもない自意識の壁が立ち塞がっていた。
なぜならあの日、雨上がりの屋上で。
俺はあいつに好きだと叫び、あいつは自ら俺の首に腕を回して……。
キスをした、という記憶が、俺の脳内を完全に支配している。
唇の柔らかい感触と、彼女の涙のしょっぱい味がフラッシュバックし、俺は机に突っ伏して両手で顔を覆いたくなった。
チラリと隣を盗み見ると、舞衣も真っ赤な顔をして、読んでもいない教科書のページをパラパラと無意味にめくっていた。
「おはようございます、お二人とも。随分と初々しい空気を醸し出していますね」
ドギマギとした沈黙を破ったのは、背後からぬっと現れた星野まりもだった。
重たいボブヘアの奥から、タブレットを抱えた彼女がニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべている。
「なっ、星野! お前、急に湧いて出んな!」
俺が焦って声を上げると、星野はズイッと顔を近づけてきた。
「呪いが解けたということは……つまり、図書館で私が提示したあの『絶対条件』を、見事にクリアしたということ、ですねぇー?」
「っっっ!!!」
俺と舞衣は、弾かれたように席から立ち上がり、全力で首を横に振った。
「な、何のことだかさっぱりわからねえな! たまたま解けたんだよ!」
「そ、そうよ! 自然に繊維が劣化しただけで、わ、私たちは何も……っ!」
裏返った声で全否定する俺たちを見て、星野は「ほう?」とさらに口角を上げた。
「照れなくてもいいんですよ。ですが、今回のケースは『比翼の縛』が現代において自力で解呪されたという、非常に貴重なオカルト現象の成功例です」
星野はタブレットの画面をトントンと指で叩いた。
「私としては、絶対に記録として残したいのです。私が解呪に協力した見返りとして……後で必ず、解かれるまでの過程で何があったのか、一から十まで詳しく聞きますからね。逃がしませんよ」
「勘弁してくれよ……!」
俺が頭を抱え、舞衣が両手で真っ赤な顔を覆う中、星野は満足げに自分の席へと戻っていった。
ただのクラスメイトには戻れない。かといって、まだ「恋人」としての距離感も掴めない。
呪いの紐は確かに解けたはずなのに、俺と舞衣の心の間には、今度は見えない糸が変に絡みつくこととなった。




