第41話 インターハイ予選
数十分後。
県立武道館の弓道競技場には、水を打ったような静寂が張り詰めていた。
俺は二階の観客席の最前列に陣取り、眼下のアリーナを食い入るように見つめていた。隣には、厳さんと志乃さん、そして両手を組んで祈るようにしている葵がいる。
「次は、水鏡高等学校、神楽選手」
アナウンスが響き、ピンと張り詰めた空気の中、舞衣が道場へと入場してきた。
純白の弓道着に、漆黒の袴姿。左手には愛用の黒塗りの弓。
その所作には一点の曇りもなく、静かな湖面のように心を落ち着かせる舞衣の気迫が漂っていた。かつて道場の隅でプレッシャーに震え、涙を流していた彼女はもういない。
俺は観客席から、ポケットからさっき拾った解けた紐を力強く握りしめて舞衣を応援する姿勢をとった。
物理的な繋がりはなくなった。でも、俺の体幹は、俺の心は、今でもあいつのスタンスを支え続けている。
本座で深く一礼した舞衣が、ふと顔を上げ、二階の観客席へと視線を向けた。
真っ直ぐに、俺の目を見る。
距離は離れているのに、バチリと視線が交差したのが分かった。
俺は、握りしめた赤紐を、彼女に見えるように胸の高さで軽く掲げた。
『俺がついている。思い切り引いてこい』
声には出さないエール。
すると舞衣は、小さくコクリと頷き、自分の袴の帯のあたりにそっと右手を添えた。
俺は目を凝らす。
彼女の凛とした黒い袴の帯に、ほんのりと色鮮やかな薄紅色の小物が揺れていた。
先日、俺が休日にプレゼントした桜柄の巾着だ。
あいつ、大会の舞台に、俺のお守りを持ってきてくれたんだ。
舞衣は視線を的へと戻し、射位へと進み出た。
弓道における八つの基本動作、射法八節が始まる。
まずは、両足を開いてスタンスを決める足踏み。
舞衣が左足を開き、右足を定める。その足幅は、俺が昨日まで背後から支え続けた、あの完璧なスタンスと寸分違わぬものだった。
俺は観客席で座ったまま、無意識に丹田に力を込め、彼女の動きに合わせて深く息を吸い込んだ。
胴造り。下半身を磐石にし、上半身の力を抜く。
弓構え《ゆがまえ》。的を見据える彼女の黒真珠のような瞳には、一切の迷いがない。
打起し。弓が静かに、そして力強く頭上へと掲げられる。
引分け。
ミシッ……
観客席にまで聞こえてきた幻の軋み音。舞衣の華奢な体が、弓の強烈な反発力を完璧に受け止めている。
震えはない。迷いもない。
俺が背中から伝えた熱と、あのプレッシャーを跳ね除けた強い心が、彼女の体幹を鋼のように安定させていた。
会。
極限の集中。的と自分自身が一体となる、究極の静寂。
会場の誰もが息を呑み、瞬きすら忘れて彼女の姿に見入っていた。
厳さんも、志乃さんも、葵も、ただ祈るように的を見つめている。
俺は、握りしめた赤紐にさらに力を込めた。
行け、舞衣。
離れ。
パーンッ!!!
張り詰めた空気を切り裂く、鋭く、高く澄み切った弦音。
放たれた矢は、まるで一条の光のように真っ直ぐに飛翔し、三十メートル先の的のど真ん中を完璧に射抜いた。
「おおぉぉぉっ!!!」
数秒の完全な静寂の後、会場から割れんばかりの歓声とどよめきが沸き起こった。
「見事だ……!」
隣で、厳さんが感嘆の声を漏らす。あの厳格な父親の目が、微かに潤んでいるように見えた。
「先輩……っ!さすが舞衣先輩ですっ!!」
葵はボロ泣きしながら両手を突き上げている。
舞衣は残心の姿勢のまま、ゆっくりと息を吐き出し、弓を下ろした。
そして、再び観客席の俺を見上げ、花が咲いたような、最高に誇らしげな笑顔を見せた。
俺も、無言で強く頷き返す。
その後の彼女の快進撃は、凄まじかった。
呪いの足枷から解放され、心身ともに完璧な状態に仕上がった神楽舞衣を止められる者など、この会場には誰もいなかった。
放たれる矢は次々と的を貫き、一切の隙を見せない完璧な射で他を圧倒していく。
結果は、言うまでもなく圧倒的な成績での優勝であり、見事にインターハイへの出場決定を果たしたのだった。
+++
閉会式が終わり、ロビーに降りてきた舞衣を、俺たちが出迎えた。
「舞衣先輩っ!! おめでとうございますっ!!」
葵が泣きながら抱きつき、志乃さんも「よく頑張ったわね」と優しく頭を撫でている。
厳さんは腕を組んだまま、「……よくやった。立派な射だったぞ」と短く、しかし万感の思いを込めて娘を褒め称えた。
舞衣は家族と後輩の祝福を受け、照れくさそうに笑いながら、やがて俺の前に立った。
「……駿」
「おう。優勝、おめでとう。最高にかっこよかったぜ」
俺が素直に称賛すると、舞衣は胸元の桜柄の巾着をそっと握りしめ、少しだけ顔を赤くして俺を見つめた。
「あなたのおかげよ。あなたが支えてくれたから……このお守りがあったから、私は的を射抜くことができたの」
「バカ言え。的を射抜いたのは、お前自身の実力だろ」
俺が照れ隠しにそっぽを向くと、舞衣はふふっと優しく笑った。
「……ありがとう、駿。私、本当に嬉しい」
「……ああ。俺も、お前が笑ってくれて嬉しいよ」
喧騒に包まれた武道館のロビー。
俺たちの足には、もうあの忌まわしい赤い紐はない。
けれど、あの過酷な同居生活の中で培われた絆と、お互いを想い合う心は、呪いなんかよりもずっと強く、確かなものとして二人の間に結ばれていた。
インターハイへの切符を手にした彼女の笑顔は、梅雨明けの青空のように、どこまでも澄み切って輝いていた。




