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第40話 解呪

 その時だった。


 パツンッ。


 足元から、微かな音が鳴った。

 それは、これまでどんな刃物を使っても、強力な機材を使っても切れることのなかった、あの忌まわしい赤い紐の繊維が解ける音だった。

 閉じたまぶたの裏に、眩い光が差し込んでくるのを感じた。


 俺と舞衣がゆっくりと唇を離し、驚いて足元を見下ろす。

 俺の左足と彼女の右足をガッチリと縛り付けていた「比翼ひよくばく」。

 その赤い紐が、今、淡い光を放ちながら、パラパラと解け始めていたのだ。


「え……嘘……」

 舞衣が息を呑む。


 大正時代、身分違いの恋に絶望し、水鏡みかがみ湖へと身を投げた二人の生徒。彼らの『絶対に離れたくない』という強烈で悲しい執念の塊が、今、俺たちの嘘偽りのない純粋な愛の力によって、ゆっくりと浄化されていく。


 赤い繊維が、まるで春風に舞う無数の桜の花びらのように、美しく淡い光の粒子となって空へと散っていく。

 それは、かつての悲恋の当事者たちが、俺たちを祝福しながら空へと昇っていくような、幻想的で、どこか切なくも温かい光景だった。


 光の粒子が完全に空へと溶け込み、消え去った。


 後には、何の拘束もなくなった、俺たちの自由な両足だけが残されていた。

 青春を諦めていた俺の心が完全に復活したことと、彼女を縛り付けていた呪いからの解放が、同時に達成された瞬間だった。


「……解けた」


 俺がポツリと呟くと、舞衣は信じられないというように、自分の右足をパタパタと動かした。

 どこも痛くない。何の抵抗もない。


「解けた……解けたわ、駿!」


 舞衣は歓喜の声を上げ、再び俺の胸へと飛び込んできた。

 今度は、バランスを崩して倒れ込むような不格好な抱擁じゃない。お互いが自分の意志で、自由にステップを踏んで、しっかりと抱きしめ合う抱擁だ。


「やったな、舞衣! これで……っ!」

「ええっ! 私たち、自由に動けるわ!」


 俺たちは、まるで子供のように大はしゃぎしながら、屋上の上で抱き合って飛び跳ねた。

 足が繋がっていないことが、これほどまでに素晴らしいなんて。普通に距離を取れること、普通に歩けることが、こんなにも感動的だとは思いもしなかった。

 これまで当たり前のようにあった足首の重みが消え、代わりに、心の中には温かくて確かな絆だけが残っている。


 喜びを爆発させ、何度も強く抱きしめ合った後、俺はふと我に返った。

 そうだ、今は喜んでいる場合じゃない。


「おい、舞衣!」

 俺は彼女の肩を掴み、真剣な顔で言った。

「大会の受付時間、まだ間に合うか!?」


 舞衣がハッとして、屋上の時計を見上げる。

「……あと少しだけある! でも、急がないと!」

「よし、行くぞ!」


 +++


「よし、行くぞ!」


 俺は屋上の水たまりに落ちていた、もはや何の呪力も持たないただの古びた布切れと化した赤紐の残骸をサッと拾い上げ、ズボンのポケットに突っ込んだ。

 そして、舞衣の背中を押し、大会本部である受付へ急げとせかした。俺たちは屋上の鉄扉へと向かって全力で駆け出した。

 扉を勢いよく押し開けると、そこには心配そうに待機していた厳さん、志乃さん、そして葵の姿があった。


「駿君!? 舞衣!?」

「先輩、その足……!」


 三人が驚愕に目を見張る。無理もない。さっきまで俺たちをガッチリと縛り付けていた絶対的な足枷が、跡形もなく消え去っているのだから。


「解けた! 詳しい話は後だ!」


 俺は短くそれだけを告げ、舞衣の弓ケースをひったくるように背負うと、再び走り出した。

「受付に急ぎます! 道を開けてください!」


 俺と舞衣は、武道館の長い廊下を全力で駆け抜けた。

 隣を走る舞衣の横顔を見る。さっきまで絶望に泣き濡れていたのが嘘のように、その瞳には試合へと向かう力強い光が宿っていた。

 俺たちの足首を繋ぐ紐はもうない。自由に、自分の歩幅で走ることができる。

 それなのに、俺と舞衣の走るペースは、驚くほど完全に一致していた。床を蹴るタイミング、腕を振るリズム、呼吸の満ち引き。この数週間、嫌というほど互いの重心を感じ取り、歩調を合わせてきた経験が、俺たちの体に世界で一番息の合った並走を叩き込んでいたのだ。


「駿、もっとペース上げるわよ!」

「おう、そっちこそ置いてかれんなよ!」


 俺たちは風のように廊下を抜け、大会本部が設けられている一階の受付ロビーへと飛び込んだ。


「待ってください!!」


 俺の叫び声に、今まさにエントリーの締め切り時刻を迎え、神楽舞衣の名前を横線で消そうとしていた運営委員の手がピタリと止まった。

「神楽舞衣、足の拘束は完全に解消されました! 出場、問題ありませんよね!?」


 俺と舞衣が息を切らして本部席の前に立つ。

 運営委員たちは、俺たちの離れた両足を見て、目を丸くして絶句した。


「……た、確かに。物理的な拘束はないようだな」

 時計を見る委員長。

「時刻は……締め切りの一分前。ギリギリセーフだ。エントリーを受理する。神楽選手、すぐに準備に向かいなさい」


「はいっ……! よろしくお願いします!」


 舞衣は深く一礼し、俺の方を振り向いて、今日二度目の満面の笑みを浮かべた。

 俺も親指を立てて応える。

 時間ギリギリで受付が完了した。何とか、間に合った。こいつをスタートラインに立たせることができたんだ。

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