第39話 全力エール
涙で潤んだ黒真珠のような瞳が、驚きに見開かれて俺を見上げる。
俺は、彼女から絶対に視線を逸らさなかった。
今度は、俺がこいつを救う番だ。
俺は、彼女の肩から手を離し、一歩だけ後ろに下がった。足首の赤い紐がピンと張る。
そして、足を肩幅に開き、深く腰を落とした。
それは、一年生の時、何百回、何千回と繰り返した応援団の基本の型。
目を閉じ、肺の底の空気をすべて吐き出し、そして新しい雨上がりの空気を丹田へと一気に吸い込む。
腹の底から、ジワリとマグマのような熱が沸き上がってくるのを感じた。弓道場で、彼女の背中を支えた時のあの呼吸だ。
「……駿? 何をして……」
戸惑う彼女の声が聞こえる。
俺はカッと目を見開き、雨上がりの大空に向かって、挫折以来ずっと封印していた、腹底からの大声を響き渡らせた。
「フレーッ! フレーッ! まーーーい!!」
ビリビリと空気を震わせるような、鼓膜を打つ巨大なエール。
俺自身の迷いや後悔、すべてを吹き飛ばすような全力の咆哮だ。
武道館の屋上から、街の喧騒を突き抜けて遠くまで飛んでいくような、圧倒的な声量。
「フレッ、フレッ、まーーーい!!」
舞衣が、息を呑んで俺を見上げている。
その瞳から、ポロリと新しい涙がこぼれ落ちた。
「勝てぇっ! 勝てぇっ! まーーーい!!」
俺は、声を張り上げながら、これまでの奇妙で過酷だった日々を思い返していた。
最悪のくじ引きから始まった体育祭。トイレも風呂も一緒という、尊厳を削り合った地獄の同居生活。互いに肘をぶつけ合いながら作った夕食。一つの傘で雨宿りをした帰り道。
いつの間にか、俺の隣にはいつもこいつがいた。
最初は嫌悪し合っていたのに、気付けば俺は、こいつの凛とした横顔を、不器用な優しさを、誰よりも愛おしいと思うようになっていた。
エールは、やがて俺の心の底に隠していた、本当の感情へと変わっていく。
もう、誤魔化さない。
「好きだぁぁぁーーっ! 好きだぁぁぁーーっ! まーーーい!!」
屋上のフェンスを越え、空高くへと届きそうなほどの絶叫。
自分の腹の底から湧き上がる、純度百パーセントの告白だった。
照れも、プライドも、すべてを投げ捨てて、ただひたすらに目の前の彼女に想いをぶつける。
「大好きだぁぁぁーーっ! 大好きだぁぁぁーーっ! まーーーい!!」
最後のエールを叫び終えた俺は、型を解き、肩で大きく息をした。
喉がヒリヒリと熱い。だけど、心の中は嘘みたいに澄み切っていた。
かつての俺を取り戻せた。いや、こいつのおかげで、かつての俺以上の熱さを手に入れることができたんだ。
静寂が戻った屋上。
ただ、遠くから聞こえる車の走行音と、俺の荒い息遣いだけが響いている。
俺は、真っ直ぐに舞衣を見つめた。
彼女は、両手で口元を覆い、信じられないものを見るような目で俺を見つめ返していた。
その瞳からは、先ほどまでの絶望の涙ではなく、とめどない感動の涙が滝のように溢れ出している。
「……お前のことが、好きだ。お前がどんだけ挫折しても、俺は舞衣を応援する」
俺が少し掠れた声で告げると、舞衣は小さく震えながら、ゆっくりと一歩、俺の方へと足を踏み出した。
繋がれた赤い紐が、たるんで揺れる。
「……バカ駿」
涙声でそう呟いた彼女の顔には、今までで一番美しい、花が綻ぶような笑顔が浮かんでいた。
「こんな近くで、あんな大声で叫ぶなんて……本当に、デリカシーがないんだから」
「……悪かったな」
「でも……」
舞衣は俺の目の前まで来ると、スッと背伸びをして、その華奢な両腕を俺の首へと回してきた。
ふわりと、雨の匂いと混ざった甘いシャンプーの香りが俺を包み込む。
至近距離で交差する視線。
彼女の大きな瞳に、俺の顔がはっきりと映っている。
「私も、あなたが好きよ。駿」
凛とした、けれどどこまでも甘く優しい声。
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の中で何かが弾けた。
もう、呪いを解くための義務感なんて、微塵もなかった。ただ、目の前にいるこの愛おしい女に触れたい、その一心だけだった。
俺は、彼女の細い腰に腕を回し、グッと引き寄せた。
舞衣も静かに目を閉じ、少しだけ顎を上げる。
そして、俺たちの唇は、ごく自然に重なり合った。
柔らかく、ほんのりと熱を持った感触。
世界が完全に静止したかのような、永遠にも似た一瞬。
今までの衝突、気まずさ、そして共有してきたすべての苦労や喜びが、この口づけの中に溶け込んでいく。
舞衣の目からこぼれた涙が、重なった唇に触れ、少しだけしょっぱい味がした。
俺たちは、周囲の世界が完全に消え去ってしまったかのように、ただお互いの存在だけを感じ合い、深く、長い、優しいキスを交わし続けた。




