第38話 雨上がりの屋上
七月初旬。インターハイ予選当日の朝は、空が底抜けになったかのような土砂降りの雨だった。
アスファルトを激しく叩きつける雨音の中、俺と神楽舞衣は、一つの大きな傘に入り、二人三脚のすり足で大会会場である県立武道館へと向かっていた。
いっち、にっ。
無言のまま、完璧に同調したリズムで歩を進める。だが、俺たちの足首を繋ぐ忌まわしい赤い紐は、昨夜の縁側での穏やかな時間を経ても、無情にも解けることはなかった。
会場の入り口付近には、すでに他校の弓道部員たちが多数集まっていた。
俺たち二人が密着して歩いてくる異様な姿に、四方八方から奇異の視線とヒソヒソ声が突き刺さる。だが、舞衣は顔を上げ、弓が入ったケースをしっかりと抱きしめたまま、前だけを真っ直ぐに見据えていた。
俺たちは武道館の中に入り、弓道部の顧問の先生と合流して、大会本部が設けられている受付へと向かった。
本部席には、険しい顔をした大会の運営委員たちが並んで座っていた。
「……先生、彼女ら二人の状態は、どうにかならなかったんですか?」
運営委員の一人が、俺たちの足元でだらりと伸びている赤い紐を指差し、呆れたようにため息をついた。
「申し訳ありません。ですが、彼女の射の精度は完璧です。彼がサポートに回れば、安全面でも問題は――」
顧問の先生が必死に食い下がるが、運営委員長らしき初老の男が重々しく首を振った。
「規定は規定です。二人三脚のような状態で射位に立つなど、前代未聞。万が一、弓を引く動作中に転倒でもすれば大事故に繋がります」
「しかし、神楽は三年生で……!」
「お気の毒ですが、特例は認められません。その紐が解けない限り、神楽さんの出場は認められません」
冷酷な、しかし運営としては当然の宣告だった。
受付のロビーに、重苦しい沈黙が落ちる。
舞衣の肩が、ビクッと震えた。彼女の顔からスッと血の気が引き、真っ青になっていくのが、隣にいる俺にもはっきりと分かった。
「……出場、できない」
舞衣の唇から、掠れた声がこぼれ落ちる。
血の滲むような努力も、指先に刻まれた無数のマメも、すべてがこの赤い紐のせいで無に帰そうとしている。俺は何も言えず、ただ強く拳を握り締めるしかなかった。
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俺たちは重苦しいロビーの空気に耐えきれず、人目を避けるようにして、会場の建物の屋上へと移動した。
いつの間にか雨は上がっていたが、空はまだ分厚い灰色の雲に覆われ、どんよりとした重い空気が漂っている。水たまりがあちこちに残る屋上には、俺たち二人だけだ。
「舞衣!」
背後から、切羽詰まった声が響いた。
振り返ると、屋上の扉を開けて、厳さんと志乃さん、そして弓道着姿の後輩・涼風葵が駆けつけてきた。
「お父さん、お母さん……葵まで」
「舞衣、受付での話は聞いたわ」
志乃さんが痛ましそうに顔を歪め、舞衣に歩み寄る。
「私なりに、警察の身分と過去の大会実績を出して本部の連中に掛け合ってみたが……ダメだった」
厳さんが、深くため息をつきながら首を振った。常に威厳に満ちている彼が、今はひどく無力感に苛まれているように見えた。
「ルールである以上、どうすることもできんそうだ。すまん……」
「そんな、お父さんが謝ることじゃ……」
「舞衣先輩……っ!」
葵がたまらず前に出て、ポロポロと悔し涙をこぼし始めた。
「先輩があんなに、あんなに頑張ってきたのに……! こんな理不尽な紐のせいで出られないなんて、絶対におかしいですっ!」
家族が頭を下げ、後輩が自分のために涙を流している。
その光景は、限界まで張り詰めていた舞衣の心を、ついに決壊させてしまった。
「……ごめんなさい」
舞衣の目から、大粒の涙が溢れ出した。
「私、結局何もできなかった……っ。みんなの期待にも応えられなくて……こんな姿で……っ」
舞衣は両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちそうになった。俺の足と繋がっているため完全に座り込むことはできなかったが、彼女は深くうなだれ、絶望の底に沈んでいくように泣きじゃくった。
曇り空の下、屋上には彼女の悲痛なすすり泣きと、葵のしゃくり上げる声だけが響き渡った。
大人たちでさえ覆せない絶対的なルール。どうしようもない絶望的な現実が、俺たちを完全に包み込んでいた。
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「しばらく二人にしてもらえますか?」
俺は、泣き崩れる舞衣の隣で、厳さんと志乃さん、そして葵にお願いした。
三人はゆっくりとうなずいて、屋上から去っていった。
忌まわしい、赤い紐。
これさえなければ、こいつは今頃、あの射位に立って堂々と弓を引いていたはずなんだ。
星野まりもが突きつけてきた、呪いを解く絶対条件。
『本物の恋人になり、心からのキスをすること』
義務感ではダメだ。下心でも弾かれる。
心から、相手を愛おしいと思い、その気持ちを隠さずにぶつけること。
俺は無気力で、環境のせいにして逃げてばかりのダサい男だった。
でも、こいつは違った。どれだけ絶望的な状況でも、決して歩みを止めようとしなかった。そんなこいつの泥臭い姿に、俺はもう一度、心に火を点けてもらったんだ。
俺はゆっくりと顔を上げた。
屋上を吹き抜ける風が、湿った空気を押し流していく。
ふと見上げると、分厚い灰色の雲がゆっくりと裂け始め、その隙間から、一筋の眩しい陽の光が差し込んできた。
光の束が、泣きじゃくる舞衣の足元を照らし出す。
……逃げてたまるか。
俺の中で、何かが完全に吹っ切れた。
俺は静かに、けれど確固たる覚悟を決めて、隣で絶望に暮れる舞衣に向き直った。
「っ……舞衣」
俺は、下を向いて涙を流す彼女の両肩を、ガシッと力強く掴んだ。
「え……駿?」
突然の強い力に驚き、舞衣が顔を上げる。
涙で潤んだ黒真珠のような瞳。
俺は、その瞳から一切視線を逸らさず、真っ直ぐに見据えた。俺の目に宿っているのは、かつて応援団で腹の底からエールを送っていた時以上の、本気の熱だ。
「泣くんじゃねぇ」
「でも……出場できないって……」
「関係ねえ」
俺は、彼女の瞳の奥まで届けとばかりに、低く、力強い声で言い放った。
「結果じゃないんだ。お前が今まで、どれだけ血の滲むような努力をやってきたかは、俺が全部知ってる」
舞衣の瞳が、大きく見開かれた。
「駿……」
「大会の記録に残るかどうかなんて、俺にはどうでもいい。お前が今日まで一本一本の矢に込めてきた魂の軌跡を、俺は誰よりも知ってる。ルールが的を隠すっていうなら、俺がお前の生きた過程の証明になってやるよ」
雲の隙間から差し込む光が、次第に強さを増し、俺たち二人を包み込んでいく。
俺は、もう二度と迷わない。
このままじゃ終わらせない。俺が必ず、こいつの呪いを解いてやる。




