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第37話 決戦前夜

 いつもより口数少なく夕食と入浴を終え、俺たちは客間へと戻ってきた。

 普段の入浴中なら、「お前が滑るからだろ」「あなたがこっちを見ないでよ!」と、水着姿で狭い浴槽の陣地を巡って激しい口論が起きるのが日常茶飯事だ。だが今夜は違った。互いに押し黙ったまま、お湯の揺れる音だけが虚しく響く、気まずすぎる時間を過ごしたのだ。

 明日のインターハイ予選に対する、逃げ場のない重圧。

 そして何より、呪いを解くための「キス」という絶対条件がお互いの頭の片隅にチラつき、強烈な意識の壁となって二人の間に立ちはだかっていた。


 客間の畳の上に座り、舞衣は明日の準備を始めた。

 弓具の手入れだ。彼女は膝の上に弓を置き、つるを丁寧に拭い、矢の羽を一本一本点検していく。いつもなら、彼女が最も集中し、研ぎ澄まされた美しさを見せる時間である。

 しかし、今日の彼女の動きはどこかぎこちない。指先が微かに震え、同じ矢を何度も無意味に確認している。道具の手入れを終えても、彼女の顔から不安の影が消えることはなかった。むしろ、夜が更けるにつれて、目に見えないプレッシャーに押し潰されそうになっているのが、隣にいる俺にも痛いほど伝わってきた。


「……」


 息の詰まるような沈黙が続く。

 前回の「あーん」の時に学んだ。義務感や下心で行動を起こせば、この忌まわしい赤い紐は俺たちの足の神経を容赦なく食い破る。呪いを解くためには、本物の恋人になり、心からのキスをしなければならないのだ。

 俺は「どうすればこいつを安心させられるのか」と、自分の無力さに苛立ちながら悩んでいた。


 俺の心の中にあるのは、邪な下心なんかじゃない。キスをしたいかと言われれば……それは、したい。いつの間にか、俺はこのストイックで不器用な高嶺の花に、完全に惹かれてしまっていたから。だが、大会に出るためという「目的」のために彼女の唇を奪うような真似は、絶対にしたくなかった。ただ純粋に、これほど泥臭く努力してきた舞衣を救いたい。明日、あいつをあの道場の射位しゃいに立たせてやりたい。その純粋な思いだけが、俺の胸の中で熱く渦巻いていた。


「……舞衣。手入れ、終わったか?」

「……ええ」

「少し、外の風に当たらないか。この部屋、息が詰まる」

 俺が声をかけると、舞衣はビクッと肩を跳ねさせ、迷った末に小さく頷いた。


 +++


 俺たちは二人三脚ですり足を進め、夜の縁側へと出た。

 夏の夜風が、風呂上がりで火照った頬を撫でていく。庭の茂みからは、微かに虫の音が聞こえていた。

 縁側で、舞衣と隣り合って座っている静かな夜。

 俺の左足と、舞衣の右足。そこを繋ぐ赤い紐が、月明かりに照らされて不気味な存在感を放っている。


「……怖い」

 ポツリと、舞衣が震える声でこぼした。

「明日、もし紐のせいで出場を止められたら……私、どうすればいいの。お父さんの期待も、葵たちの応援も、全部無駄になってしまう。……駿がしてくれたサポートさえも」


 膝を抱える彼女の肩が、小刻みに震えている。不安で震えそうになる舞衣に対し、俺の頭は真っ白になった。

 なんて声をかければいい。こういう時、気の利いた慰めの台詞の一つでも言えればいいのに、俺の貧相なボキャブラリーからは、ロマンチックな言葉なんて一つも見つからなかった。


 でも、言わなきゃいけない。

 俺は、無意識のうちに力強く拳を握りしめ、真っ直ぐに彼女の横顔を見据えた。


「……俺がいる」


 低く、不器用な俺の声が、夜の静寂に落ちた。

 舞衣がハッとして、潤んだ瞳で俺を見上げる。


「お前が今まで、手に数え切れないほどのマメを作って、泣きたくなるようなプレッシャーに耐えてきたこと……俺が一番よく知ってる」

「駿……」

「だから、お前は絶対に一人じゃない。……明日は、何が起ころうと俺が全部支えてやる」


 俺は、不器用ながらも、腹の底からの力強い声でハッキリと伝えた。

「周りの大人が何て言おうが関係ねえ。俺の体幹で、お前のスタンスを完璧に固定してやる。どんな手を使ってでも、お前があの的を射抜くまで、俺が隣で全部受け止めてやるから」


 俺の言葉を聞いた舞衣の瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。

 次の瞬間。

 彼女の中でずっと張り詰めていた緊張の糸が、プツリと切れたように見えた。

 舞衣は何も言わずに、ゆっくりと体を傾け――自分の頭を、俺の左肩にそっと預けてきたのだ。


「っ……舞衣?」


 突然のことに、俺は驚いて息を呑んだ。

 だが、彼女は何も答えない。ただ、俺の肩に額を押し当てるようにして、静かに息を吐いている。

 薄いシャツ越しに伝わってくる、彼女の頭の重み。そして、少し高めの柔らかな体温。俺は、彼女を突き放すことなんてできず、ただその温もりを静かに受け止めていた。


 ふと視線を落とすと、俺の肩に寄りかかる彼女の膝の上が見えた。

 マメだらけの小さな両手が、何かをギュッと大切そうに握りしめている。

 それは、先日俺がプレゼントした、桜柄の小さな巾着きんちゃくだった。

 俺があげた小物を、まるでお守りのように強く握りしめてくれている。その事実が、俺の胸の奥をギュッと締め付け、熱いもので満たしていった。


 心からのキスをしなければ、紐は解けない。

 でも、今夜の俺たちに、これ以上の言葉も、性急な行動も必要なかった。

 今夜、俺たちはキスには至らなかった。だが、肩を寄せ合い、互いの体温を感じ合うこの時間には、言葉を超えた絶対的な信頼と愛情が、確かに交差していた。


 鈴虫の鳴き声だけが響く中、俺たちはそのまま動くことなく静寂が続き、決戦の前夜が過ぎ去っていった。

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