第36話 最終宣告
七月初旬。いよいよ明日は、インターハイ予選の当日だ。
夕暮れの弓道場には、梅雨明けの蒸し暑い空気と、いつも以上のヒリヒリとした緊張感が漂っていた。
「……行くわよ」
「おう」
俺は神楽舞衣の背後に立ち、彼女の足踏みのスタンスに合わせて自分の重心をグッと落とす。俺の左足と彼女の右足を繋ぐ忌まわしい赤い紐は、少し緩んでいるとはいえ、未だに解ける気配はない。
呼吸を合わせる。舞衣がゆっくりと弓を押し開き、俺は彼女の背中越しに伝わる強烈な張力を、丹田に力を込めて支えた。
パーンッ!
鋭い弦音と共に放たれた矢は、夕日を切り裂き、見事に三十メートル先の的の中心を射抜いた。
ここ数日の練習で、俺たちの連携は極限まで高まっていた。俺の体幹は完全に彼女のスタンスを支え切り、舞衣の射も以前の完璧な正確さを取り戻している。
「よし……これで、明日は絶対に……」
舞衣が安堵の息を吐き、弓を下ろした。
しかし、その達成感を無残に打ち砕くように、重い足音が道場に響いた。
現れたのは、弓道部の顧問の先生だった。先生は、俺たちの足元でだらりと伸びている赤い紐を、苦渋に満ちた表情で見つめた。
「神楽。……練習は、本当によくやってきたな」
「はい。久慈浦君のサポートのおかげで、射は完全に安定しています。明日もこの状態で……」
「だがな」
先生は、重々しく首を振った。
「大会本部にも掛け合ったが……いくら怪我や事情があるとはいえ、二人三脚のような状態で射位に立つことは、安全面と規定の観点から、おそらく出場は認められないだろう」
「……えっ」
舞衣の手から、スッと力が抜けた。
竹弓が畳に触れ、鈍い音を立てる。
「そ、そんな……! 私、ここまで頑張ってきたんです! 的だって、ちゃんと当てられます!」
「すまない。私としても無念だが、これが現実だ。……明日の大会受付までにその状態が解消されない限り、お前の出場が認められることは無い」
顧問の先生が去った後、道場には息が詰まるような重苦しい沈黙が降り下りた。
舞衣は顔面を蒼白にして、自分の足元を見つめていた。
星野から突きつけられた、解呪の絶対条件。
――『本物の恋人になり、心からのキスをすること』。
俺たちはその条件を知りながらも、互いの気持ちの整理がつかず、どうしても実行に踏み切れないでいた。物理的な距離はゼロに近いのに、相手を意識しすぎるあまり、最後の一歩が踏み出せないのだ。
「……どうしよう、駿」
舞衣の声が、震えていた。瞳には、涙が滲んでいる。
「このままじゃ、私……明日、引くことすらできない……」
俺は奥歯を強く噛み締めた。
こいつがどれだけ泥臭く努力してきたか、俺が一番近くで見てきたんだ。それなのに、俺の足が結ばれているという事実が、最後の最後でこいつの夢を絶とうとしている。
「……大丈夫だ。一緒に解決策を探ろう。他にもあるかもしれないし」
気の利いた慰めなんて言えなかった。だが、震える彼女の肩を見過ごすことなんて、俺には到底できなかった。
+++
予選前夜の、神楽家の食卓。
ダイニングテーブルには、道場での出来事を引きずったままの、這い蹲るような重苦しい空気が漂っていた。
正面には、腕を組んだ厳さんが、般若のような険しい顔で鎮座している。
「舞衣」
地を這うような低い声が、静かな食卓に響いた。
ビクッと、隣に座る舞衣の肩が跳ねる。
「泣いても笑っても明日だ。……神楽の家の人間として、悔いを残すな」
無言かつ強烈なプレッシャー。ただでさえ出場が危ぶまれている現状で、父親からの過度な期待は、舞衣の心をギリギリまで追い詰めていた。
「……はい、お父さん」
舞衣は消え入りそうな声で答え、深く俯いた。
「もう、あなたったら。そんなに怖い顔しないでちょうだい」
張り詰めた空気を和ませるように、志乃さんが明るい声を上げて大皿を運んできた。
「ほら、明日は勝負の日なんだから!舞衣の好物の、特製トンカツよ!しっかり食べて『勝つ』のよ!」
きつね色に揚がった分厚いトンカツから、食欲をそそる香りが漂ってくる。
「いただきます」
俺は早速箸を伸ばしたが、ふと隣を見ると、舞衣は自分の箸を持ったまま、完全に手が止まっていた。
極度の緊張と、出場への絶望感。彼女の顔色は青白く、食欲なんて欠片もないことが一目で分かった。
……このままじゃ、体力がもたねぇぞ。
俺は少し悩んだ後、わざと乱暴な手つきで、自分の皿にあったトンカツを二切れ、舞衣のご飯の上へ乗せた。
「えっ……駿?」
舞衣が驚いて俺を見る。
「お前、全然食ってねぇだろ。俺のカツ、少し分けてやるから食え」
「い、いらないわよ。胸がいっぱいで……それに、あなただって明日のために体力つけるために食べなきゃ」
「俺はもう腹一杯なんだよ。いいから食え」
「でも……」
頑なに首を振ろうとする舞衣。
俺はため息をつき、箸でトンカツを一切れつまみ上げると、彼女の口元へと突き出した。
「あーん、してやろうか?」
「なっ……!?」
舞衣の顔が、一瞬にして真っ赤に染まった。
「バ、バカなこと言わないで! お父さんたちが目の前にいるのに!」
「だったら自分で食え。食わないなら、俺が無理やり口にねじ込むぞ」
「……っ、わ、分かったわよ! 食べるから、引っ込めて!」
舞衣は慌てて自分の箸でトンカツを掴み、小さな口で齧りついた。
「……美味しい」
「だな。志乃さんのカツ、最高なんだから残すなよ」
俺が少し意地悪く笑うと、舞衣は「うるさいわね」と唇を尖らせながらも、少しだけ顔に赤みが戻っていた。
正面を見ると、厳さんが眉間をピクピクと引きつらせて俺たちを睨んでいたが、俺はそしらぬ顔をして自分のご飯をかき込んだ。
舞衣の心にある重たい不安を、どうすれば消してやれるのか。
下心なんてない。俺はただ、本気でこいつを救いたかった。明日のインターハイで、こいつに弓を引かせてやりたかった。
キス、か……。
俺はご飯を飲み込みながら、チラリと舞衣の桜色の唇を盗み見た。
明日の予選。残された時間は、もうない。
呪いを解くための究極の選択が、俺の心に重く、そして甘くのしかかっていた。




