第35話 眠れない夜
「本当にその文献はあっているのか? 星野!」
俺は周囲の視線に耐えきれず、声を潜めながらも必死に星野に食ってかかった。
「お、俺とこいつが本物の恋人!? 付き合ってもいないのに、そんなの無理に決まってんだろ! だいたい、心からのキスって……」
「そ、そうよ! 私たちはただこの紐のせいで同棲しているだけのクラスメイトってだけで……そ、それに、インターハイの予選だってあるのに、そんな不純なこと考えてる余裕なんてないわ!」
舞衣も顔を真っ赤にして、パニック状態のまま激しく動揺している。
だが、俺たちの必死の抵抗を前にしても、星野はタブレットを机に置き、鉄面皮のまま微動だにしなかった。
「そんなに仲良な姿を見せつけておいて、お二人が現在、付き合っていないと言い張るのは、どうかとは思いますが。ただ、呪いの解除にはそれが必須条件なのです」
星野はストローでアイスティーを啜り、氷のような無表情で俺たちを見据えた。
「神楽さん、インターハイ予選が来週に迫っているのでしょう? このまま足が繋がった状態で、満足なパフォーマンスができるのですか? そもそも出場させてくれるのでしょうか」
「そ、それは……」
「ならば、話は簡単です。今ここで、キスしてください。さあ!」
「「はあぁっ!?」」
星野のあまりにも暴論すぎる提案に、俺と舞衣は再び揃って素っ頓狂な声を上げた。
「い、今ここでって……カフェのど真ん中でかよ!?」
「それに『心から』じゃないとダメなんでしょ!? こんな義務感で無理やりやっても、またあの激痛が走るだけじゃない!」
俺たちが激しく拒否すると、星野は「チッ」と微かに舌打ちをした。
「……本当にお二人は、察しが悪いですね。ここまでお膳立てしてあげたのに」
星野は呆れたように大きなため息をつくと、席を立ち上がった。
「そうですか。では、一生そのままお互いを足枷のようにして他人同士として同棲して暮らし続けてください」
「えっ……お、おい星野!」
「オカルト研究会としての私の調査はここまでです。絶対条件は提示しました。あとはお二人で、ご勝手に愛を育むなり、一生二人三脚で体育祭の延長戦として生きるなり、好きになさってください。……お会計、自分の分は置いておきますね」
冷たく言い放つと、星野は机に小銭を置き、タブレットを抱えてさっさとカフェから出て行ってしまった。
残された俺と舞衣。
カフェの賑やかなBGMとは裏腹に、俺たちの間には、絶望と、そしてそれ以上に強烈な気まずさが横たわっていた。
+++
カフェを出て、神楽家への帰り道。
初夏の風は心地よいはずなのに、俺は全身から変な汗が止まらなかった。
「…………」
「…………」
無言のまま、俺たちは二人三脚で足を引きずって歩いていた。
紐が十センチほど緩んでいるため、少し距離を空けて歩くこともできるはずなのだが、なぜか俺たちの肩は触れ合いそうなほど至近距離にあった。
歩くたびに、舞衣のワンピースの裾が俺の足首に触れ、彼女の少し高めの体温が、確かな熱として俺の肌に伝わってくる。
……本物の恋人になって、心からのキス。
星野の突きつけた絶対条件が、頭の中で壊れたレコードのようにリフレインしている。
キス。
つまり、唇と唇を重ね合わせるということだ。
俺はチラリと、横を歩く舞衣の顔を盗み見た。
少し俯き加減の彼女の横顔。滑らかな白い頬から、形の良い、ほんのりと桜色に色づいた唇へと、無意識のうちに視線が吸い寄せられてしまう。
あそこに、俺の唇を……?
想像した瞬間、体中の血が一気に沸騰したように顔が熱くなった。
いかん、いかん!俺は何を考えてるんだ!
慌てて視線を前へ戻そうとした、その時だった。
舞衣もふと顔を上げ、俺の方をチラリと見たのだ。
そして、彼女の視線もまた、俺の目ではなく、俺の口元へと無意識に向けられていた。
「っ……!」
「っ……!」
バチリと、互いの視線が交差する。
お互いに、相手の唇を意識して見ていたという事実を完全に悟ってしまった。
「な、なんでもないわ!! 別に、あなたの顔に何かついてるとか、そういうんじゃないから!!」
舞衣は顔を真っ赤にして、早口でまくし立てながらバッとそっぽを向いた。
「お、俺だって見てねえよ! ただ、その、前を見て歩けよって思って……!」
俺も裏返った声で弁解しながら、彼女とは反対の方向へ首を捻った。
だが、顔を背けても、肩が触れ合うほどの「ゼロ距離」の密着感はどうしようもない。
お互いの激しい心臓の鼓動が、空気を伝わって聞こえてきそうなほどだ。
心からのキスをしなければ、紐は一生解けない。
だが、どうやってこの高嶺の花と、そんなムードになればいいんだ?
そもそも、こいつは俺のことを、本当にそういう対象として見てくれるのか?
インターハイ予選が目前に迫る中、俺たちの間には、「相棒」という言葉ではもう誤魔化しきれない、甘く、そして息が詰まるほどの強烈な異性としての意識が芽生え始めていた。
+++
その日の夜。
神楽家の客間に敷かれた、二組の布団。
部屋の明かりは消され、静寂が降り下りているはずなのに、俺の心臓はうるさい音を立て続けていた。
俺たちはいつものように、背中合わせで布団に潜り込んでいた。
だが、今日は互いに一言も口をきいていない。
数十センチの距離があるはずなのに、背中越しに伝わってくる彼女の気配が、これまでになく大きく、そして生々しく感じられる。
あいつと、キス……。
暗闇の中で、俺はギュッと目を閉じたが、脳裏に浮かぶのは、今日一日ずっと意識してしまった彼女の桜色の唇ばかりだ。
どうせ何をやったって無駄だと、青春を諦めていた俺。
そんな俺が、学校一の高嶺の花であり、ストイックに夢を追いかける彼女と、本物の恋人になる?
……なれるわけがない。俺なんかじゃ、あいつに相応しくない。
でも、もし、俺が本当にあいつのことを……。
その時、背中合わせの向こう側で、舞衣が小さく寝返りを打つ衣擦れの音がした。
舞衣もまた、暗闇の中で瞳を開けたまま、自分の胸の鼓動を押さえつけていた。
インターハイ予選まで、あとわずか。
「…………」
「…………」
静かな夜の客間。
物理的な紐の拘束よりも強く、彼女への恋心という見えない糸に縛られた俺は、悶々と悩み、一睡もできないまま長く苦しい夜を過ごしていた。
インターハイ予選は、もう目の前まで迫っていた。
呪いを解くための「究極の絶対条件」と、本当の気持ちに向き合う覚悟を突きつけられたまま、運命の大会が訪れようとしていた。




