第32話 休日のお出かけ
七月を目前に控えた週末の朝。
梅雨の晴れ間から差し込む日差しは、すでに初夏の強い熱を帯び始めていた。
「いっち、にっ。いっち、にっ」
俺は、眠い目をこすりながら神楽家の庭へと引っ張り出されていた。
隣を歩くのは、もちろん神楽舞衣だ。俺の左足と彼女の右足は、未だに忌まわしい赤い呪いの紐でガッチリと繋がれたままである。
「おい、舞衣……今日は休みだろ。練習しすぎじゃねぇか?」
「休んでいる暇なんてないわ。インターハイ予選まで、もう来週に迫っているのよ」
舞衣の表情は険しかった。彼女の右手には、愛用の弓がしっかりと握られている。
ここ数日、二人三脚でのサポートの甲斐もあって彼女の射は安定を取り戻していたが、やはり大会直前という重圧は彼女の心に焦りを生み出していたらしい。
庭の真ん中に立ち、舞衣が弓を構えようと足踏みのスタンスを開く。
俺は大きな欠伸を噛み殺しながら、彼女の右足に合わせて左足を開き、腰を落とそうとした。
「ちょっと、二人ともストーップ!」
その時、縁側からおっとりとした、けれど有無を言わさぬ響きを持った声が飛んできた。
振り返ると、エプロン姿の志乃さんが、腕を組んで仁王立ちしていた。
「お母さん、どうしたの? 今から練習を……」
「舞衣、今日は弓に触るの禁止です! 没収!」
志乃さんはツカツカと歩み寄ると、ポカンとしている舞衣の手からヒョイッと弓を取り上げてしまった。
「なっ……お母さん! 返してよ、予選前で一日だって無駄にできないのに!」
「根を詰めすぎよ、舞衣。昨日も夜遅くまで素引きしてたじゃない。弓の弦だって、ずっと張りっぱなしじゃ切れてしまうでしょ? 駿くんも、毎日付き合わされて疲れた顔してるし」
志乃さんの指摘に、俺は思わず自分の顔を撫でた。確かに、連日の極限のサポートと密着生活で、目の下にはうっすらとクマができている自覚はあった。
「で、でも……」
「でもじゃありません。今日は二人とも、外の空気を吸ってきなさい。少しは息抜きしないと、本番で倒れちゃうわよ」
志乃さんはにっこりと微笑んだが、その背後には逆らえない謎のオーラが漂っていた。
「さあ、着替えて着替えて。駿くんの私服も、昨日お母さんがちゃんと細工しておいたからね」
「細工、ですか?」
俺が首を傾げると、志乃さんは縁側に置いてあった紙袋を俺に押し付けた。
「ほら、早く行っておいで。夕方まで帰ってきちゃダメよー」
+++
志乃さんに強引に家から追い出される形となり、俺たちは客間で着替えを済ませた。
「……なあ、舞衣。終わったか?」
「え、ええ。終わったわ」
いつものようにバスタオルで作った簡易的な仕切りの向こうから、少し戸惑ったような声が返ってきた。
俺は仕切りのタオルを避けて、振り返った。
「…………っ」
俺は、思わず言葉を失った。
目の前に立っていたのは、足首まである長いスカート丈の、淡い水色のワンピースを着た舞衣だった。
普段の学校では、隙のない制服姿か、凛とした弓道着、あるいはジャージ姿しか見たことがなかった。
風にふわりと揺れる薄手の生地。ストイックに結い上げられていた髪は下ろされ、サラサラとした黒髪が彼女の華奢な肩にかかっている。
清楚で、可憐で、どこからどう見ても、年相応の飛びきり可愛い女の子だった。
「……な、何よ。変、かしら」
俺がまじまじと見つめすぎたせいか、舞衣は顔を真っ赤にして、モジモジとワンピースの裾を弄った。
長いスカートは、俺たちの足首を繋ぐ忌まわしい赤い紐を、外から見えないように上手く隠してくれている。
「いや……その、変じゃねえよ。むしろ……すげぇ、似合ってる」
俺は照れ隠しに頭を掻きながら、そっぽを向いて答えた。耳の裏が熱いのが自分でも分かる。
「そ、そう……ありがとう」
舞衣は少しだけはにかむと、今度は俺の全身をジッと見つめてきた。
「駿の方こそ……なんだか、新鮮ね」
俺の今日の服装は、黒のポロシャツに、少し丈の長いハーフパンツだった。
このハーフパンツこそが、志乃さんが言っていた「細工」の正体だ。制服のスラックスの時と同じように、左足の側面に沿って一直線にマジックテープが縫い付けられており、紐で足が繋がっていても横から巻きつけるように穿ける仕様になっていた。
「ま、まぁな。俺も制服か部屋着しか着てなかったし」
「うん。……腕とか足とか、意外としっかり筋肉ついてるんだなって……ちょっと思っただけよ」
舞衣がボソッと呟きながら視線を泳がせる。
弓道のサポートで体幹を使いまくっているおかげか、最近は俺の体つきも以前より少し引き締まってきているらしい。
お互いに、初めて見る「休日のお出かけスタイル」にドギマギしてしまい、部屋の中にはむず痒い沈黙が落ちた。
「……と、とりあえず、行くか。夕方まで帰ってくるなって言われたし」
「え、ええ。そうね」
俺たちは気まずさを誤魔化すように、いーち、にっ、と心の中でリズムを取りながら玄関を出た。
+++
夏の気配が混じる風の中、俺たちは水鏡市の市街地を歩いていた。
舞衣のロングスカートのおかげで足首の紐は隠れているものの、物理的に繋がっているため、俺たちの肩と肩は触れ合いそうなほどに密着している。
すれ違う人からは、間違いなく「距離感の近い仲良しカップル」に見えているだろう。
「……なぁ。外に出たはいいけど、どこ行く?」
俺が尋ねると、舞衣は困ったように眉を下げた。
「分からないわ。私、休みの日もずっと弓道の練習ばかりしていたから……こういう時、どこに行けばいいのか全然思いつかない」
「俺だって同じだぞ。バイトばっかりで、遊びに行くような場所なんて知らねえし」
駅前の喧騒を避け、少し落ち着いた通りに出たところで、俺たちは立ち止まってしまった。
隣に並ぶ舞衣からは、シャンプーの甘い香りと、ほんのりとした体温が伝わってくる。私服姿でこんなに密着して外を歩いているという事実が、俺の心臓の鼓動を無駄に早めていた。
せっかく志乃さんが気を利かせてくれた「息抜き」の時間だ。予選前のプレッシャーで押し潰されそうになっていたこいつを、少しでもリラックスさせてやりたい。
こいつが、喜びそうな場所……。




