第31話 入浴と照れ隠し
「……もう一度、引くわ。もう迷わない。今度は、絶対に当てる」
舞衣の声に、先ほどの悲壮感はもうなかった。本来の彼女らしい、凛とした芯の強さが戻っている。
「おう。好きなだけ引け」
俺は彼女の背後から離れ、再びスタンスを支える位置へと戻った。俺の左足と彼女の右足を結ぶ忌まわしい赤い紐が、今は不思議と、互いの心臓を繋ぐ太い血管のように感じられた。
舞衣が的を見据え、ゆっくりと弓を押し開いていく。
ここから先は、言葉は一切不要だった。
極度のプレッシャーで集中できない舞衣に対し、俺は声には出さず、背中越しに深い腹式呼吸で気合の「型」をとった。
応援団時代、何百回、何千回と繰り返した、丹田に極限まで気を練り込む呼吸法。肺の底まで空気を吸い込み、腹の底からジワリと熱を放つ。
ミシッ……と弓が軋む音に合わせて、俺の力強い体幹の振動と熱量が、結ばれた足の紐と、微かに触れ合う背中を通じて舞衣の体へとダイレクトに伝えていく。
ドクン、ドクン。
俺の鼓動と、舞衣の鼓動が、まるで一つの生き物のように完璧なシンクロを見せ始めた。
俺の熱が舞衣の冷え切った指先を温め、舞衣の弓を引く強烈な執念が俺の体幹をさらに鋼のように固くする。背中から伝わる彼女の鼓動と熱量だけで、二人の精神が完全に同調し、心が一つになっていく瞬間だった。
一切の迷いが消え、心がスッと鎮まった舞衣の横顔は、神々しいほどに美しかった。
静寂の中、彼女の指先から弦が放たれた。
パーンッ!
道場の空気を切り裂くような、鋭く澄んだ弦音。
放たれた矢は、夕焼けの光を一直線に切り裂き、三十メートル先の的の中心(星)を見事に射抜いた。
「……よしっ」
道場の隅で息を呑んで見守っていた葵たちが、ワッと歓声を上げる。
舞衣はゆっくりと弓を下ろし、背後の俺を振り返った。その瞳には、プレッシャーに打ち勝った安堵と、俺に対する深い信頼の光が宿っていた。
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すっかり日が落ちた夜。
極限の集中力と精神の同調を終えた俺たちは、泥のように疲労困憊して神楽家に帰宅した。
「ただいま戻りました……」
「お邪魔します……」
靴を脱ぐ気力すらギリギリの俺たちを、エプロン姿の志乃さんがふんわりとした笑顔で出迎えてくれた。
「おかえりなさい、二人とも。なんだか今日は一段とお疲れのようね。顔がゲッソリしてるわよ」
志乃さんはそう言うと、俺たちをダイニングテーブルへと促した。
そこには、湯気を立てる具沢山の豚汁と、綺麗に海苔が巻かれた大きなおにぎりが用意されていた。
「夕食にはまだ少し早いから、お腹に入れておきなさい。舞衣、インターハイが近くてプレッシャーなのは分かるけど、一人で頑張りすぎないでね。足が繋がってるんだから、駿君に半分持ってもらいなさい」
「……お母さん」
厳格な厳さんからの「結果を出せ」という無言の圧力とは正反対の、志乃さんの底抜けに温かい親心。
俺たちは無言で温かいおにぎりをかじった。よく漬かった真っ赤な梅干しが、冷えて疲労しきった五臓六腑に染み渡っていく。
「……美味い」
「ええ……すごく、温かいわ」
俺たちは顔を見合わせ、自然と笑みをこぼした。張り詰めていた心の糸が、温かい食事と母親の優しさによって、ゆっくりと解きほぐされていくのを感じた。
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その夜。
俺たちは水着姿で、風呂の浴槽に並んで浸かっていた。
最初は絶叫と羞恥の嵐だったこの入浴タイムも、今ではすっかり慣れてしまい、狭い浴槽の中で足首の紐が絡まらないように座るポジショニングすら完璧にマスターしてしまっていた。
立ち込める湯気の中、ちゃぷん、とお湯が揺れる音が響く。
「……今日」
膝を抱えるようにして座っていた舞衣が、ぽつりと口を開いた。
「道場で、私の手が震えていたの……気づいてたのね」
「まぁな。俺も昔、あんな風にプレッシャーで押し潰されそうになったことがあるから。見てりゃ分かるよ」
俺が肩までお湯に浸かりながら答えると、舞衣は少しだけ視線を落とした。
「私、ずっと怖かったの。お父さんの期待にも、部員のみんなの期待にも、絶対応えなきゃいけないって。もし私が予選で落ちたら、神楽家の恥になるんじゃないかって……一人で、ずっと不安でもがいてた」
普段は絶対に弱音を吐かない彼女の、裸の心。不安を隠さずにぶつけてくるその姿に、俺はお湯の中で、彼女に少しだけ身を寄せた。
「一人じゃないだろ。今は、俺がいる。お前の不安も震えも、俺の体幹で全部吸収してやるよ」
「……ふふっ。駿って、たまにすごく男らしいこと言うわよね」
舞衣はお湯で赤くなった顔をほころばせ、俺の方を真っ直ぐに見つめた。
「ありがとう、駿。あなたが背中から支えてくれるだけで、私、どんなプレッシャーにも勝てる気がするわ。……あなたがいてくれて、本当に良かった」
「俺の方こそ。お前が諦めずに弓を引き続けてる姿を見て、俺ももう一度、熱くなれたんだ。……お前がいたから、俺は逃げずに済んだんだよ」
湯気の向こうで、互いの視線が絡み合う。
相手の弱さを受け入れ、自分の弱さを曝け出し、互いを必要不可欠な存在だと慰め合う言葉。
「……ねえ、これって」
「……あ」
ふと、自分たちが口にした言葉の強烈な甘さと、現在の「水着で一緒にお風呂に浸かっている」という異常なシチュエーションに、俺たちは同時に気がついた。
『あなたがいてくれて、本当に良かった』
『お前がいたから、俺は逃げずに済んだ』
……完全に、長年連れ添った恋人同士の会話じゃねえか!!
意味を理解した瞬間、俺の顔は風呂の温度とは全く関係ない熱で、一気に沸騰した。
舞衣も同じだった。彼女の白い肌が、首の根元から耳の先まで、真っ赤な梅干しのように朱に染まっていく。
「ち、違うわよ! 今のは相棒としてというか、サポート役としての感謝であって……!!」
「わ、分かってるよ! 俺だって、別にそういう変な意味で言ったわけじゃ……!!」
「の、のぼせた! もう出るわよ!!」
「バカ、急に立つな! 紐が引っ張られて転ぶぞ!」
浴室に、ドタバタという情けない水音と悲鳴が響き渡る。
互いに不安をぶつけ合い、慰め合った結果、気付けば自分たちは無自覚なまま、恋人同士のような甘い空間を作り出していた。
インターハイ予選という巨大な壁を前に、二人の間の見えない結び目は、もう二度と解けないほど強固に絡み合い始めていた。




