第30話 震える手
放課後の弓道場。
七月初旬のインターハイ予選まで、残された時間はあとわずかだ。
道場には、いつも以上のピリピリとした緊張感が張り詰めていた。特に、弓を構える舞衣の周囲だけ、空気が重く澱んでいるように感じられた。
俺はいつものように彼女の背後に立ち、左足を彼女の右足に寄り添わせ、スタンスを支えるために重心を落としていた。
だが、背中越しに伝わってくる舞衣の筋肉の動きが、明らかにおかしい。
……硬い。背中が板みたいに強張ってる
いつもなら、下半身はどっしりと安定し、上半身はリラックスしているはずなのに、今日の彼女は全身に無駄な力が入りすぎている。
無理もない。三年生である彼女にとって、これが全国へ続く最後のチャンスだ。絶対に負けられないという強烈なプレッシャー。それに加えて――。
「っ……」
舞衣が弓を押し開く瞬間、僅かに息が乱れた。
昨日の廊下で、無意識に深く握り締め合ってしまった「手繋ぎ」の記憶。その強烈な意識のノイズが、極限の集中力を要する弓道の妨げになってしまっているようだ。
パーンッ!
放たれた矢は、鈍い弦音と共に的を大きく逸れ、安土(的の後ろの砂場)の端に突き刺さった。
「ああっ……また……」
「舞衣先輩……」
道場の隅で見ていた後輩の葵が、心配そうに声を漏らす。
これで五射連続の失敗。普段の、的の中心を正確に射抜く天才的な彼女からは、到底考えられないほどのスランプだった。
「……違う、重心が前に行き過ぎた。もう一度……!」
舞衣は焦燥感に駆られたように弓を下ろし、次の矢を番えようとする。
「なあ、舞衣。少し休んだらどうだ」
俺は背後から小声で嗜めた。
「休んでる暇なんてないわ! 予選まで時間がないのよ! 私がだらしないせいで、矢が……っ」
「お前の呼吸、浅くなってるぞ。これ以上やってもフォームが崩れるだけだ」
「うるさいっ! あなたには分からないわよ!」
舞衣は俺の言葉を鋭く跳ね除け、無理やり弓を構え直した。
彼女の横顔には、余裕など一切なかった。悲壮感すら漂うほどに自分を追い詰め、歯を食いしばっている。周囲の期待、由緒ある神楽家としての重圧、そして絶対に結果を出さなければならないという強迫観念。
そのギリギリの姿を見た瞬間、俺の脳裏に、苦く重たい記憶がフラッシュバックした。
『久慈浦ならやってくれるよな!』
『期待の新人だ、頼んだぞ!』
応援団時代。先輩や同級生からの期待の眼差し。
親父の会社が倒産し、深夜バイトで睡眠時間は削られ、体は鉛のように重かった。それでも「期待に応えなきゃいけない」と自分を騙し、無理やり声を張り上げ続けた。
やがて声は掠れ、演舞のキレは落ち、周囲の期待は失望へと変わっていった。自分が壊れていく音を聞きながら、それでも「休む」という選択肢が取れなくて、結果的にすべてを投げ出して逃げた。
プレッシャーに押し潰されそうになる人間の心の内を、俺は痛いほどよく知っている。
俺は、視線をスッと下へと落とした。
弓のグリップを強く握り締めている、舞衣の右手。
無数の硬いマメが刻まれたその指先が――微かに、けれど確かに、小刻みに震えていた。
「…………ッ」
俺の胸の奥を、鋭い刃物でえぐられたような痛みが走った。
学校一の高嶺の花。妥協を許さない氷の女王。
そんなふうに周りから見られ、誰よりも自分に厳しく生きてきた彼女は、今、恐怖で指を震わせている。たった一人で、この途方もない重圧と戦いながら、それでも逃げ出さずに足を踏ん張っている。
……俺は、逃げたのに。
彼女は逃げない。壊れそうになっても、絶対に弓を手放そうとしない。
震える彼女の指先を見つめていると、俺の中で燻っていた「何か」が、どうしようもなく熱を帯びて膨れ上がっていくのを感じた。
「……もう一度、引くわ」
舞衣が震える息を吐き出し、再び弓を押し開こうとした。
しかし、限界を超えた強張りは誤魔化せない。彼女の体幹がグラリと揺れ、足踏みのスタンスが崩れそうになる。
放っておけない。
こいつを、俺と同じように一人で潰れさせるわけにはいかない。
俺は無意識のうちに、繋がれた左足にグッと力を込め、震える彼女の背中へと、自分の体を一歩、深く踏み込ませていた。
+++
俺は無意識のうちに、繋がれた左足にグッと力を込め、震える彼女の背中へと、自分の体を一歩、深く踏み込ませていた。
「……えっ?」
突然至近距離に迫った俺の気配に、舞衣が小さく肩を跳ねさせる。
俺はそのまま、彼女の右肩越しに自分の右腕を伸ばした。そして、弓のグリップを握りしめて白くなっている彼女の手を、震えているその指先ごと、後ろからそっと包み込むように自分の手で覆った。
「……駿?」
俺の荒れた少し大きな手が、舞衣のマメだらけの小さな手を覆い隠す。
ひんやりと冷たくなっていた彼女の指先に、俺の体温を分け与えるように、ゆっくりと、優しく力を込めた。
「大丈夫だ、俺がついてる」
耳元で、できるだけ低く、穏やかな声で語りかけた。
ただそれだけの、不器用な言葉。だが、俺の手から伝わる熱と声の響きに、舞衣の背中を板のように強張らせていた緊張が、スッと解けていくのが分かった。
「……っ」
彼女は小さく息を呑み、僅かに俯いた。包み込んだ俺の手の中で、彼女の震えが少しずつ治まっていく。強がって一人で抱え込んでいた重圧が、俺という存在の熱に触れて、ゆっくりと溶け出していく静かな時間だった。
「……ごめんなさい。私、何だか焦ってて」
「謝らなくていい。お前は一人で全部背負い込みすぎるんだよ。足が繋がってんだから、プレッシャーや悩みなんかの負の部分も俺へ半分よこすんだ。それさえも一緒に担がせてくれ」
俺が静かに言うと、舞衣は潤んだ瞳で振り返り、小さく、けれど確かに頷いた。




