第28話 全力ダッシュ
あの雨宿りの一件と、二人きりで夕食を作った夜を経て、俺と神楽舞衣の間の空気はややおかしなことになっていた。
物理的な話をすれば、俺たちの足首を繋ぐ忌まわしい赤い呪いの紐は、十センチほどの余裕を持ってだらりと伸びている。これだけ緩んでいれば、本来ならもう少し互いの距離を離して歩けるはずだ。
だが、俺たちは今日も今日とて、肩が触れ合いそうなほどの至近距離で、ピッタリと歩調を合わせて学校の廊下を歩いていた。
「いっち、にっ」という掛け声すらない。左足と右足が、まるで一つの生き物のように完璧なシンクロを見せて、同じリズムで廊下の床を蹴っている。
なんでこうなるんだよ……
俺は内心で頭を抱えていた。
紐が緩んだことで、逆に「相手に合わせよう」という無意識の気遣いが働きすぎてしまっているのだ。俺が歩幅を少し広げようとすると、舞衣もそれに合わせて歩幅を広げる。俺がペースを落とすと、舞衣も落とす。
結果として、以前の窮屈だった時よりもさらに息の合った、見事な二人三脚が完成してしまっていた。
チラリと隣を見下ろすと、舞衣はツンと澄ましたストイックなポーカーフェイスを保っているが、その耳の裏がほんのりと桜色に染まっているのを、俺は見逃さなかった。
お互いに、昨日の「駿」呼び事件や、夕食時の「あーん」の記憶を引きずりまくっている。
気まずい。けれど、決して嫌な気まずさじゃない。そんなむず痒い空気が俺たちの間に漂っていた。
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その時だった。
「だから! あの無気力男が、舞衣先輩の足手まといになってるって言ってるんです!」
「バカ言うな! 駿はああ見えて根性あるんだよ! しっかり神楽さんをサポートしてるはずだ!」
前方の階段の踊り場から、やけに聞き覚えのある騒がしい声が響いてきた。
俺と舞衣が顔を見合わせて角を曲がると、そこには俺の元相棒である轟大河と、舞衣を心底崇拝している弓道部の後輩、涼風葵が、学校の廊下で今にも取っ組み合いの喧嘩を始めそうな勢いで口論していた。
「インターハイ予選がもう来月に迫ってるんですよ!? それなのにあんな紐で繋がれて……しかも相手は、部活もサボって青春を諦めたような男じゃないですか! 舞衣先輩のペースを乱しているに決まってます!」
葵がギリギリと歯軋りしながら叫ぶ。大河と葵の口論の内容を聞くと、葵は舞衣のインターハイ出場には俺が足手まといだと非難しているようだった。
「駿は逃げたわけじゃねえ! あいつの体幹と粘り強さを舐めんな! 神楽さんのスタンスくらい、完璧に支えてみせるっての!」
大河も負けじと、大型犬のように吠え返す。大河は俺の肩を持ち、あいつはよくやっていると反論していたのだ。
「はぁ!? あの細い腕で、舞衣先輩の弓の張力を支えられるわけないでしょ!」
「なんだと!? 駿の腹筋舐めんなよ!」
なんだその口論……。
俺と舞衣は、呆れてため息をついた。葵が俺を敵視するのはいつものことだが、大河が俺の腹筋の代弁者になっているのはどういうわけだ。
「……止めるわよ、駿」
舞衣が小さく呟き、俺を見上げた。
「ああ。あいつら、ほっといたら職員室に連行されるぞ」
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俺と舞衣は短く言葉を交わし、同時に前傾姿勢をとった。
ダンッ!と、足が全く同時に床を蹴る。
俺たちは「シンクロダッシュ」で駆けつけ、完璧な連携で二人を制止することにした。
数十メートルの廊下を、俺たちは猛スピードで駆け出した。
ただでさえ足が繋がっている状態での全力ダッシュだ。しかも今は紐が十センチほど緩んでいるため、走るたびに紐が揺れ、お互いの重心が大きくブレそうになる。
マズい、足がもつれる……!
俺がバランスを崩しかけた瞬間、隣の舞衣もわずかによろめいた。
このままでは大惨事になる。そう直感した俺の左手が、咄嗟に手を出した。
そして同時に伸ばされた舞衣の右手と、空中でガシッと交差した。
「っ……!」
無意識だった。転ばないため、互いの重心を一つに固定するための、最も合理的で、最も原始的な手段。
ダッシュ中、足が絡まらないように自然と互いの手を強く握り締めて走り切る。
俺たちは互いの指の間に指を滑り込ませ、いわゆる『恋人繋ぎ』の状態で、力強く手を結び合ったのだ。
ギュッと絡み合う指先。弓道で鍛えられた舞衣の手のひらの硬いマメの感触と、少し高めの体温が、俺の脳を直接ショートさせそうになる。
だが、立ち止まる余裕はない。手を繋いだことで上半身のブレが完全に相殺され、俺たちの二人三脚は風のようなスピードで踊り場へと突進した。




