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第27話 キッチン

 気を取り直して、二人での夕食作りがスタートした。

 メニューは野菜炒めと中華スープだ。包丁を持った舞衣と並んでキッチンに立つが、足が繋がっているため、コンロと冷蔵庫を往復するだけでも一苦労だった。


「ちょっと駿、冷蔵庫から卵取って」

「おう。じゃあ一緒に右にカニ歩きな。いっち、にっ」


 最初は互いの動線がぶつかり合って、「もっとそっち寄れ」「あなたがズレなさいよ」と文句を言い合っていた俺たちだが、料理が進むにつれて、徐々にその動きに変化が起きていた。


「……よし、俺が醤油を取るから、お前は火を止めろ」

「わかったわ。じゃあ、次はお皿を出して」


 言葉を交わさずとも、相手の次の動きが予測できる。俺が左腕を伸ばせば、舞衣がスッと右肩を引いてスペースを空ける。それはまるで長年連れ添った夫婦のような生活感が漂い始めていた。


「駿って、手際がいいのね。それに洗い物もあっという間だし」


 俺が使い終わったボウルやまな板を、調理と同時進行で次々と洗っていくのを見て、舞衣が感心したように目を丸くした。


「深夜のファミレスのバイト、舐めんなよ。効率よく動かないと、ピーク時は店長に怒鳴り散らかされるからな。嫌でも体に染み付いてんだよ」


 俺がスポンジの泡を洗い流している横で、舞衣が小鍋で煮込んでいた中華スープの味見をしようとお玉で掬い、小皿に移した。

「ねえ、味付けこれでいいか確認して」

 舞衣はごく自然な動作で、小皿からスプーンでスープを掬うと、フーフーと息を吹きかけて冷まし、そのまま俺の口元へと差し出してきた。


「ん?」


 俺もまた、料理の作業に集中していたせいで何の疑問も抱かず、差し出されたスプーンを口に含んだ。


「……おう、美味い。ちょうどいい塩加減だ」

「よかった」


 そこで、ふと俺たちの動きが完全に停止した。

 視線が交差する。


 ……あれ?


 数日前の昼休み、学校の中庭で義務感から無理やり「あーん」を試した時は、呪いの紐が牙を剥き、足の神経が千切れるほどの激痛が走った。

 だが今、俺たちは完全に無自覚な状態で「あーん」をやってのけた。しかも、呪いのペナルティの激痛は、待てど暮らせど全くやってこない。

 それはつまり、この行為が「嘘偽りのない、本物の好意と信頼」に基づいたものであると、呪いの紐に判定されたということに他ならなかった。


「…………ッ!!」

「…………ッ!!」


 意味を完全に理解した瞬間、俺は頭に血が上るのを感じて、弾かれたように距離を取った。舞衣も同じ気持ちのようだ。


「い、今のは違うわよ! ただの味見で、他意はなくて!」

「わ、分かってるよ! 俺もただ口に運ばれたスープ飲んだだけだからな!」

 互いにそっぽを向きながら、心臓の鼓動がスープの沸騰する音よりも大きくキッチンに響いていた。


 +++


 激しい動揺をごまかすように料理を完成させ、コンロの火を止める。

 ふと、調理台に置かれたお互いの手に視線が落ちた。


 並んだ二つの手。

 舞衣の右手の指先や手のひらには、弓の弦を引き絞り続けた証である、無数の硬いマメが刻まれている。ストイックに全国を目指す彼女の、血の滲むような努力の結晶だ。

 そしてその隣にある俺の手は、大量の皿洗いと洗剤、そして深夜の肉体労働で荒れ果て、傷だらけになっていた。


「……駿の手、すごく荒れてる」


 舞衣が、俺の指先を見つめながらポツリと呟いた。

「ハンドクリームとか塗ってなかったの?……痛くない?」

「痛いとか言ってる余裕、なかったからな。とにかく稼がないと、親父と一緒に野垂れ死ぬと思ってたし」


 俺は自嘲気味に笑い、今度は舞衣の小さな、けれど力強いマメだらけの手を見つめ返した。


「……お前も、必死に戦ってたんだな」


 ぽろりと、本音がこぼれた。

 環境のせいにして逃げた俺と、環境に抗い続けている舞衣。結果は違えど、互いにギリギリのところで自分自身の戦いを続けてきたのだ。

 言葉の代わりに、俺はそっと、彼女の右手の小指に自分の左手の小指を触れさせた。

 足とは違う感覚の接触感。互いの過去の努力と痛みを深く理解し合う、静かで温かい時間が流れた。


 接触した指を見つめ合い、やがて視線が絡み合う。

 先ほどのスープの味見といい、今のこの空気感といい。


「……なんか俺たち、まるで付き合ってるみたいだな」


 俺がポツリと呟くと、舞衣はハッとして手を引っ込め、今日一番の赤面を見せた。

「なっ、ば、バカなこと言わないでよ! 誰があなたなんかとカップルに……っ! それに私は今、インターハイのことでイッパイイッパイなの」

「俺だって言ってみただけだろ! 冗談にマジになんなよ!」


 自分で言い出した事に耐えきれなくなり、照れ隠しにわあわあと騒ぎ立ててしまった。


 +++


 その後、ダイニングテーブルに向かい合って(紐が緩んだためギリギリ対面で座れるようになっていた)夕食を食べ始めた。

 互いに顔を真っ赤にしながらも、「ほら、お茶」「ありがとう」と、相変わらず完璧な連携を見せながら食事を進めていると、玄関の方からガチャリと扉が開く音がした。


「ただいまー。予定より早く終わっちゃった」


 リビングに顔を出したのは、ほろ酔い気分の志乃さんだった。

 そして、俺たちが自分たちで作った料理を並べ、見事な出来栄えの食事をしている光景を見るなり、志乃さんは目を丸くし、やがて口元を両手で覆ってクスクスと笑い始めた。


「あらあら、お邪魔だったかしら。二人きりでお料理作って、仲良くご飯だなんて。……なんだか新婚さんを通り越して、すっかり熟年夫婦みたいね」


「「ブハッ!?」」


 俺と舞衣は同時にスープを吹き出しそうになり激しくむせ返った。


「お、お母さん! 変なこと言わないでってば!」

「そうですよ志乃さん! ただ飯食ってるだけで……!」


 必死に否定すればするほど、志乃さんは「ふふふ、ごちそうさま」と楽しそうに笑いながら奥の部屋へと消えていった。

 取り残された俺たちは、さらに赤くなった顔を見せられないまま、ひたすら無言で野菜炒めを口に放り込むしかなかった。

 紐はまだ繋がっている。だが、確実に俺たちの日常は、甘く、そしておかしな方向へと塗り替えられようとしていた。

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