第26話 相合傘
しばらくすると、激しかった雨音が少しずつ穏やかになり、シトシトという小雨に変わってきた。
「……雨、弱まってきたな。帰るか」
俺が咳払いをしながら言うと、神楽もコクリと頷いた。
俺は再び折り畳み傘を広げ、神楽の頭上へと差し掛けた。一つの傘に二人で入る相合傘。紐が緩んだとはいえ、一つの傘に入るにはやはり肩を寄せ合う必要がある。
軒下から一歩を踏み出そうとした、その時だった。
「あっ……」
神楽が小さく声を上げ、立ち止まった。
見ると、彼女の右足のローファーの靴紐が解けてしまっていた。
直そうとする神楽だが、彼女の両手には鞄と弓道道具でふさがっている。抱え込んで屈んでも体勢的に非常に結びにくそうだった。
「あー、もう。どんくせぇな」
俺はため息をつきながら、持っていた傘の柄を神楽の方へと突き出した。
「ほら、これ持ってろ」
「え……?」
神楽が戸惑いながら空いてる指で傘を受け取ると、俺は水たまりを避けて自然に片膝を突き、彼女の足元へと屈み込んだ。
「ちょ、久慈浦君!? いいわよ、自分でできるから……!」
「荷物で手がふさがってるんだから、お前にはできねぇだろ。じっとしてろ」
俺は文句を言いながらも、解けた彼女の靴紐を両手で持ち、泥が跳ねないように丁寧に、そしてしっかりとリボン結びにしてやった。
靴紐を結んでいる間、神楽は俺たちが濡れないように、しっかりと傘をさし掛けてくれていた。
雨音だけが響く中、俺が靴紐を結び終えようとした時、頭上から小さな、本当に無意識にこぼれたような呟きが聞こえた。
「……駿の背中って、案外大きいんだね」
自分の耳を疑った。
苗字ではなく、名前で呼ばれたこと。そして、俺の背中を見下ろしながら漏れたその言葉の響きが、あまりにも無防備だったこと。
俺は靴紐から手を離し、しゃがんだままの体勢でバッと上を向いた。
「は? なんだそれ」
俺と目が合った瞬間、神楽はハッと我に返ったように大きく肩を揺らした。思わず心の声が漏れたらしく、自分が口に出した言葉の意味と気恥ずかしさを完全に理解したのだろう。
彼女の顔が、耳の先まで一瞬にして沸騰したように真っ赤に染まった。
「な、ななな、なんでもないわ!! 今のは忘れて!!」
「いや、完全に聞こえてたけど」
「聞こえてない!! 早く立たないと置いていくわよ!!」
神楽は顔から火を吹きそうな勢いで照れ隠しに叫び、俺から目を逸らしてスタスタと歩き出そうとする。
「お、おい待てよ! 紐が緩んだからって急に歩調変えたら転ぶぞ!」
「転ばないわよ! バカ駿!」
「傘! 傘が俺から外れて濡れてるって!」
小雨の降る帰り道。
真っ赤な顔をして早歩きになる神楽と、それに引っ張られながら一つの傘に収まろうとする俺。
紐が緩んで物理的な距離は広がったはずなのに、俺たちの心は見えない糸で、昨日よりもずっと強く結びついたような気がした。
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神楽家での過酷な同居生活も、気づけばそれなりの日数が経過していた。
紐が数センチほど緩んだことで、物理的な自由度は少しだけ増した。だが、昨日の一つの傘での雨宿りと、無意識の「駿」呼び事件以来、俺と彼女の間の見えない距離感は、確実におかしなことになっていた。
その日の夕方。
学校から帰宅すると、ダイニングテーブルの上に一枚のメモが置かれていた。
『今日は高校の同窓会で夜まで出かけます。夕食の材料は冷蔵庫にあるから、二人で仲良く作ってね。母より』
のほほんとした志乃さんらしい丸文字の横で、俺たちは顔を見合わせた。さらに悪い……いや、ある意味では気楽なことだが、警察官である厳さんも今日は当直勤務で深夜まで帰らない。
つまり、この広い神楽家に、俺と彼女の二人きりということだ。
「……お母さんったら、急なんだから」
彼女が小さくため息をつく。
「仕方ねぇだろ。飯、どうする?」
「作るしかないわね。外食に行くにしても、この足じゃ目立つし」
彼女はそう言って、キッチンから二着のエプロンを取り出した。
一つを俺に渡し、彼女自身もピンク色のエプロンを首からかける。そして、背中の紐を結ぼうと腕を後ろに回したのだが、紐で繋がれた足元と、俺がすぐ横に立っているせいで身動きが取りづらく、四苦八苦していた。
「……ちょっと、近すぎよ。もう少し離れて」
「離れたら俺がコンロの角にぶつかるんだよ。……貸せ、俺が結んでやる」
「えっ……」
俺は彼女の背後に回り込み、エプロンの紐を手に取った。
腕が彼女の細い腰回りを囲むような形になる。シャンプーの甘い香りが至近距離で鼻を掠め、彼女の体温が伝わってくる。昨日の雨宿りからこっち、ただでさえ意識しすぎているのに、この密着度は心臓に悪い。
「……おい、舞衣。モジモジすんな」
わざと茶化すように、俺は昨日からの意趣返しも込めて、初めて彼女を下の名前で呼んだ。
ビクッと、彼女の肩が跳ねる。
「な、なんで急に名前で……っ」
「お前だって昨日、俺の名前呼んだだろ。おあいこだ」
真っ赤になった舞衣の耳元を見つめながら、俺はリボン結びを作って背中から離れた。




