第24話 手作り惣菜
弓道場。
夕暮れのオレンジ色の光が差し込む中、道場にはピンと張り詰めた空気が漂っていた。
俺は神楽の背後に立ち、彼女の足踏みのスタンスに自分の足を完璧に合わせて踏ん張っていた。
応援団時代に鍛え上げた下半身の粘りと体幹。左足を彼女の右足に寄り添わせ、彼女が弓を引き絞る際に生じる重心の前傾と反発力を、俺の体で丸ごと受け止める。
ミシッ、と竹弓が軋む音。
神楽の背中越しに、強烈な張力と彼女の筋肉の躍動が伝わってくる。俺は丹田に力を込め、微動だにせず彼女を支え抜いた。
パーンッ!
鋭い弦音と共に放たれた矢は、真っ直ぐに飛んでいき、三十メートル先の的の中心を綺麗に貫いた。
見事な的中。俺がサポートに入るようになってから、神楽の矢は以前の正確さを完全に取り戻していた。
「……よし」
神楽が静かに息を吐き、弓を下ろす。
その時、道場の隅から、小柄な人影がドスドスと足音を立てて近づいてきた。
神楽を心底崇拝している二年生の後輩、涼風葵だ。
彼女は俺の目の前でピタリと立ち止まると、イラついた顔で俺を睨みつけてきた。
「……何だよ。また文句か?」
俺が身構えると、葵はギリッと奥歯を噛み締め、悔しそうに顔を歪めた。
だが、次に彼女の口から出たのは、予想外の言葉だった。
「……悔しいけど、認めるしかありません」
「え?」
「今の先輩の射、すごく綺麗で的確でした。紐で繋がれているのに、体幹が全くブレていない……。久慈浦先輩が、舞衣先輩の重心を完璧に支えているのがわかりました」
葵は俺を真っ直ぐに見据えた。
「無気力男だと思って見下してましたけど……先輩の神聖な隣のポジションを任せられるくらいには、あなたのサポートは完璧です。……これからも、舞衣先輩をよろしくお願いします」
そう言って、葵は深く頭を下げた。
あの俺を毛嫌いしていた葵が、俺の実力を認め、真っ向から頭を下げてくれたのだ。
「……おう。任せとけ」
俺が短く返すと、葵は「でも、先輩に馴れ馴れしくしたら絶対に許しませんからね!」と顔を真っ赤にして捨て台詞を吐き、足早に去っていった。
葵の背中を見送った後、振り返った神楽と視線がぶつかった。
彼女は弓を握る手を少し緩め、夕日に照らされた顔を俺に向けた。
「……すごいわね。あの葵に、あそこまで言わせるなんて」
「まぁな。俺の体幹、伊達じゃねえだろ」
俺が少し得意げに笑うと、神楽は背中越しに俺の体温を感じるように、そっと寄りかかってきた。
「……あなたの背中、すごく力強いわ。あなたが完全に支えてくれているって分かるから、私も安心して弓を引ける」
そう言って、神楽は俺を見上げ――初めて、心からの無防備な笑顔を見せた。
以前の氷のような表情の彼女からは想像もつかない、花が咲いたような柔らかい笑顔。
ドクン、と。
俺の心臓が、柄にもなく大きく跳ねた。夕焼けのせいだけじゃない。彼女のその笑顔が、あまりにも眩しすぎたのだ。
+++
すっかり日が落ちた夜の神楽家。
夕食の準備を手伝おうとしていた俺たちの耳に、玄関のチャイムの音が響いた。
「はーい」と志乃さんが玄関を開けると、そこに立っていたのは、ヨレヨレのスーツを着た俺の親父、久慈浦遠馬だった。
「あ、あの……夜分遅くに申し訳ありません。息子の駿が、いつもお世話になっております……」
親父は、神楽の父親である厳さんと志乃さんに向かって、ペコペコと何度も頭を下げている。
その手には、色気のないプラスチックのタッパーがいくつか握られていた。
「これ、大したものじゃないんですが、私が作った惣菜です。少しでも食費の足しになればと……」
「あらあら、ご丁寧にありがとうございます。ちょうど夕食のところだったんです。一緒にどうですか?」
志乃さんの朗らかな声に促され、親父は恐縮しきった様子でダイニングへと通された。
食卓の上に、親父が持参したタッパーが並べられる。
中身は、きんぴらごぼうや、ひじきの煮物、切り干し大根といった、見慣れた茶色い惣菜ばかりだ。親父の会社が倒産し、二人で狭いアパートで暮らすようになってから、食費を切り詰めるために親父がよく作ってくれていたものだった。
だが、豪華な神楽家の食卓に並ぶと、その惣菜はひどく貧相で、場違いに見えた。
「親父……そんな安いもん、わざわざ持ってこなくてよかったのに」
俺はたまらず、少し卑屈な声で口を挟んだ。
神楽家のような由緒ある立派な家の人たちに、俺たちの貧乏くさい過去を曝け出されているようで、無性に恥ずかしくなったのだ。
「いいじゃないか。お世話になってるんだから、これくらいさせてくれ……」
親父が申し訳なさそうに肩をすくめた、その時だった。
「いただきます」
隣に座っていた神楽が、美しい所作で箸を持ち、親父の作ったきんぴらごぼうを一口、口に運んだ。
ゆっくりと咀嚼し、彼女は目を丸くした。
「……とても美味しいです」
神楽は、親父の顔を真っ直ぐに見つめて言った。
「ごぼうの食感もちょうど良くて、味がしっかり染み込んでいます。……心を込めて、丁寧に作られたのが分かります」
それは、お世辞など一切ない、彼女の誠実な言葉だった。
「ほ、本当ですか……? 口に合ってよかった……」
親父は目尻に涙を浮かべ、何度も頷きながら喜んでいた。
俺は、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
会社が倒産し、深夜バイトに明け暮れた日々。俺はずっと、自分の貧しかった過去や、不甲斐ない親父に対して、どこか複雑な思いを抱えていた。すべてを「環境のせい」にして、斜に構えて生きてきた。
だけど、神楽はそんな俺の背景や、親父の作った惣菜の見た目なんかで判断しなかった。
彼女はいつだって、物事の本質を真っ直ぐに見ようとする。俺の泥臭いサポートを受け入れ、親父の不器用な愛情が詰まった料理を「心を込めて作られた」と評価してくれた。
俺がずっと抱えていた、重くて暗いコンプレックスのようなものが、彼女のその誠実な言葉によって、スッと浄化されていくのを感じた。
「……駿くんのお父さん、料理お上手なんですね。私も今度、レシピを教えてもらおうかしら」
志乃さんも笑顔で惣菜に箸を伸ばし、厳さんも「うむ、悪くない味だ」と静かに頷いた。
温かい空気が流れる食卓で、俺は胸がいっぱいになりながら、無言で親父の作ったきんぴらごぼうを噛み締めた。いつもより、ずっと美味しく感じた。
+++
夜が更け、客間に敷かれた二つの布団に潜り込んだ。
部屋の明かりは消され、静寂が降り下りている。
互いの足首は未だに赤い紐で繋がれているが、背中合わせで寝ているこの距離感にも、すっかり慣れてしまった。
暗闇の中、俺はポツリと口を開いた。
「……なぁ」
「何?」
すぐに神楽から、静かな声が返ってくる。
「さっきは……親父のメシ、褒めてくれてありがとな。……なんか、嬉しかった」
面と向かっては恥ずかしくて言えない言葉も、暗闇と背中合わせという状況が、少しだけ素直にさせてくれた。
背中越しに、神楽が少しだけ寝返りを打つ気配がした。
「……お礼を言われる筋合いはないわ。私は、本当のことを言っただけよ」
彼女の声は、少しだけ照れているように聞こえた。
「見た目は少し不器用だったけど……お父さんの優しさが伝わってくる、とても温かい味だったもの。あなたが今まで、愛情を受けて育ってきたのがよく分かったわ」
「……そっか。サンキューな」
俺は暗闇の中で、自然と笑みをこぼしていた。
足首の赤い紐は、まだ解けていない。
だけど、俺たちの心の間にある見えない結び目は、間違いなく強くなっている。
背中から伝わる彼女の微かな体温を感じながら、俺は深い、穏やかな眠りへと落ちていった。




