第21話 紐の緩み
部屋に戻り、就寝前の時間。
神楽はいつものように、畳の上で柔軟体操とストレッチを始めた。
いつもなら「痛ぇ、無理引っ張んな」とギャーギャー文句を言う俺だが、今日は黙って彼女の動きに付き合っていた。いや、付き合うだけではない。
俺は神楽が前屈をしているすぐ横で、うつ伏せになり、両肘とつま先で体を支えるプランクの姿勢をとった。
「……ちょっと。あなた、何やってるの?」
ストレッチの手を止めた神楽が、胡乱な目で俺を見下ろしてくる。
「見てわかんねぇか。筋トレだよ」
俺は腹筋に力を込め、プルプルと震えそうになる体を必死にキープしながら答えた。
「筋トレって……急にどうしたのよ」
「今日、お前のスタンスに合わせて気付いたんだ。応援団時代に比べりゃ、俺の筋肉もだいぶ落ちてる。お前のそのブレない体幹を本気で支えるには、今の俺の筋力じゃ力不足だからな」
俺が真顔でそう告げると、神楽はポカンと口を開けた。
やがて、その瞳に静かな驚きと、どこか嬉しそうな光が灯った。俺の「お前の邪魔はしない」という宣言が、ただの口先だけの強がりではなく、本気の覚悟であることを悟ってくれたらしい。
「……バカみたい。急にやりすぎると筋肉痛になるわよ」
「うるせえ。お前こそ、ストレッチの手を止めるなよ」
「言われなくてもやってるわよ」
神楽はふいっと顔を背けたが、その声はいつになく優しく弾んでいた。
彼女が夜のストレッチをする横で、俺はひたすら腕立て伏せや体幹トレーニングを続ける。奇妙な連帯感が、部屋の中にじんわりと満ちていた。
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紐が数センチ緩んだことの恩恵は、すぐに実感することになった。
トイレのドアが、ほんの少しだけ隙間を狭めて閉められるようになったのだ。相変わらず個室の外で耳を塞いで待機する地獄の時間は変わらないが、精神的な削られ具合は昨日よりも格段にマシになった。
着替えや風呂での可動域も広がり、昨日みたいにバランスを崩して押し倒してしまうようなハプニングの確率も減った。
だが、物理的な余裕が生まれたことで、別の問題が発生していた。
客間の布団に入り、部屋の明かりを消した後。
昨日までは紐がパンパンに張っていたため、「不可抗力で密着している」という言い訳が通用した。
しかし、今は紐が数センチ緩んでいる。つまり、俺たちが背中合わせで寝ているこの距離感は、物理的な限界ではなく、「自分の意志でこのギリギリの距離を保っている」ということになるのだ。
「…………」
「…………」
暗闇の中、数センチの余裕があるはずなのに、なぜか昨日よりも相手の存在を強烈に意識してしまう。
背中越しに伝わってくる、神楽の微かな寝息。シャンプーの甘い香り。
少し動けば、簡単に肌が触れ合ってしまう距離。
心を通わせたことで紐が緩んだという事実が、俺の脳内を過剰にドギマギさせていた。
「……なあ」
沈黙に耐えきれず、俺は小声で呼びかけた。
「……何」
すぐに神楽から返事があった。彼女も起きていたらしい。
「紐、少しでも緩んでよかったな」
「……ええ。明日はもっと上手くスタンスが取れるかもしれないわね」
「ああ。俺が完璧に合わせてやるから、安心しろ」
背中合わせのまま、短い言葉を交わす。
互いに顔は見えないが、彼女が少しだけ微笑んでいるような気がした。
ドクドクと、心臓の音がうるさい。この音が彼女に聞こえていないかヒヤヒヤしながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
最悪のくじ引きから始まった同居生活。その過酷な日々の中で、俺たちの心は確実に、そして急激に距離を縮め始めていた。
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翌朝。
神楽家のダイニングテーブルで、俺と神楽舞衣は並んで朝食をとっていた。
今日のメニューは、アジの開きにほうれん草のお浸し、納豆と玉子焼きという和食だ。
紐が数センチ緩んだことによる物理的な余裕もあるが、それ以上に、俺たちの間に決定的な変化が起きていた。
――肘が、ぶつからないのだ。
俺が左手で箸を伸ばしてアジの身をほぐす瞬間、神楽はスッと右手を引いて味噌汁のお椀を持ち上げる。神楽が納豆を混ぜるために右腕を回すと、俺は自然と左脇を少し締めてコーヒーカップに口をつける。
昨日まで、あれほどガツガツと肘をぶつけ合い、互いのペースを巡って罵り合っていたのが嘘のようだ。言葉を交わさずとも、相手の呼吸や筋肉のわずかな動きを肌で察知し、自然とタイミングをずらすことができる。
お互いの存在を認め合ったことで、一種の阿吽の呼吸が、俺たちの間に出来上がりつつあった。
「……はい、ご飯たりた? 二人とも綺麗に食べてくれたわね」
空いた皿を下げに来た志乃さんが、俺たちを交互に見比べて、ふんわりとした笑顔を浮かべた。
「なんだか今日は、昨日よりずっと親しそうでいいわね。息もピッタリだし、まるで新婚さんみたい」
「ブハッ!?」
「ゴホッ、ゲホッ……!」
志乃さんの悪気のない、しかし破壊力抜群の一言に、俺は飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになり、神楽は味噌汁で激しくむせ返った。
「し、新婚って……お母さん! 変なこと言わないでよ!」
「そうですよ志乃さん! ただ単に、ぶつかるのを避けるコツを掴んだだけで……!」
顔を真っ赤にして必死に否定する俺たちを見て、志乃さんは「あらあら、照れちゃって」とクスクス笑いながらキッチンへと戻っていった。
取り残された俺たちは、ドギマギとした気まずい空気の中、そっぽを向いて残りの玉子焼きを無言で口に放り込むしかなかった。




